前回の記述から、もうずいぶん経ってしまいました。ごめんなさい。だって、恥ずかしい。昔のわたしの、駄々っ子みたいな記述のあるこの帳を開くのは。
 ちょっと、色々と変わってしまっているかもしれないけれど、つづきを認めていきます。

 すこし、遅すぎたかもしれません。間に合うかしら。



 あなたの訃を聞いたのは、交通事故から6年後のことでした。
 何通目だったでしょう。あなたのお父さんはまめな人だから、…………いや、わたしを愛してくれていたから、かなりお手紙をくれたから、何通目に書いてあったかは、もうわかりません。でも、ちゃんととっておいてあります。なつかしい。いまはもう、増えません。

 あれが死んだらしい。死亡通知がきた。
 たぶん、そのくらいは書かれていました。

 わたしはそれを、しずかにまばたきしながら読んでいました。微睡みさえおぼえていた気がします。
 ひるのかげりの中で、綺麗な字を1文字ずつ、追っていた。

 わたしは久しぶりにあなたの生家へ向かいました。まさか当時、自分が未だあなたの家の合鍵を持っているとは思ってもみなかったけれど、合鍵で勝手に入りました。
 わたしは迷わずお父さんの書斎へ行きました。夜食を傍らに何度も通った、あの人の隠れ家へ。

 いつか踏み慣らしていた本棚の影たちの上を、ぎこちなく歩いていきました。本棚の中身は多分、変わっていませんでした。
 わたしはゆらゆら、金魚の尾になったつもりで、影みたいに書斎を歩いていきました。向かう先はもちろん、お父さんがいつもいた机。
 失礼とはわかっていながらも、わたしはお父さんの椅子にそっと、触れました。
 ……あなたはこの椅子に、いちどでも座ったことがあるのかしら。お父さんの膝越しにでも。
 そう思うと、すこし、座ってみたくなってしまいました。でも、きっとないのでしょうね。

 ――――座ってみるか

「…………いいえ」

 わたしは座りませんでした。座らないことにしました。
 座らないで、そっと視線を上げます。
 あなたのお父さんは、まるでわたしがここへ来るのをわかっていたような瞳をしていました。
 お父さんがわたしに近づいて、目の前で止まりました。至近距離で目が合います。
 お父さんは年老いてもなお美しいひとでした。嫌がられることはわかっていたけれど、あなたが年老いたらこうなるのかしらと、つい考えてしまいました。
 お父さんの手が、そっとわたしの後ろへまわります。
 抵抗する時間を与えてから、そっとわたしを抱き寄せました。
 わたしは何も言いませんでした。お父さんも何も言わず、数秒後にはわたしから離れました。
 そうしてまた、あなたに似た瞳がわたしを見つめるの。

 お父さんはさまざまを話してくれました。遺体のないこと、ずいぶん前に亡くなっていたらしいこと、遺品のないこと、そんなことたちを。
 わたしはそれを聞いて、……どう思ったかしら。もう昔のことだから、正確には覚えていないけれど……きっと、あなたらしい、と。
 そう思ったでしょう。今のわたしも、そう思っているから。

 ――――これから

 懐かしい。焦がれる。
 思い出すことができないことでさえ。

 ――――これから、君はどうする

 お父さんは、わたしに此処へ戻るよう、言いました。
 それほどにわたしを愛してくれていた。とても嬉しいことでした。
 この家も遺るものもすべて君にやると。不自由なく暮らせるほどの充実を、君の時間と引き換えに、と。

 何もかも、あなたの仰る通りでした。

 お父さんはわたしをたしかに異性として愛してくれていて、そしてわたしはあなたがいなくても生きてきた。やっぱりあなたはいつも正しかった。わかい思惑であなたを批判しようとした時期もあったけれど、結局、あなたに面と向かって言えることではないもの。

 けれど。

 けれど。わたし、くやしい。
 あなたが正しいこと、かんたんには認められない。

「はい」

 わたし、その提案を受けたの。

 びっくりでしょう。あなたを想っていながら、お父さんの提案を受けたの。

 お父さんはすこし目を見開いて、ほんとうか、って。疑いをなぞるようにちいさく呟いていた。

「ほんとうです。だって」

 だって、くやしい。
 わたし、告白する前から振られた。



「だってわたし、龍彦くんを負かしてやりたいんです」



 あなたが亡くなってから、わたしは年老いました。もちろんのことです。夏を過ごして秋をくぐり抜けましたし、冬はさむくて、春はいつでも浮き足立った。
 でもね、わたし、このときは決めていたの。

「だから、手伝ってください。わたし、今日からたくさん勉強をします」

 あなたより頭が良くなったら、死ぬって。

 そう決めていたの。あなたみたいに、どこか世の中、世界に対して飽きを感じるほどの思考の持ち主になるくらいこの世界を知り尽くして、そうしたら直ぐに死のうって。
 そうして、あなたに嫌がらせをするの。なんでも知っていて、あなたの頭のなかだってかんたんに読める。そういうわたしになってからあなたに再会して、あなたに頭脳戦で勝ってやるって。

 ずうっと嫌がらせをしつづけてやろうって。
 死後でさえあなたにまとわりついてやろうって。
 絶対にひとりにしてあげないんだって。

 あなたが卒業した大学院にも入って、あなたが学んだこと以上を学ぶ。授業時間外には、あなたが取り立てて学んでこなかったことだって学ぶ。この書斎の本だって、ぜんぶ、ぜんぶ読んでやる。
 そのためには、お父さんの好意だって利用する。
 あなたみたいに冷酷に。あなたみたいに狡猾に。

 だからお父さんの提案を受けました。
 わたし、ひどい女でしょう。

 それでもお父さんは、わたしをしずかに見つめる。やわらかい瞳で、わたしをかたどりつづける。わたしの意志を理解して、わたしの髪をそっと撫でる。
 わたし、こんなにどす黒いくせして天使になれるかしら。あなたみたいにまっしろで、とうめいな天使に。
 あなたを負かすほどのお勉強。けして容易いことではないでしょうけど、やってみせると誓いました。教育の根は苦くっても、果実は甘いって、むかしの偉いひとの言葉もあるものね。
 むかしの偉いひとの本を手にとって、死ぬために学びはじめました。





 でもわたし、いまも生きているのよ。わたし、もうたぶん、いいえ絶対、あなたより頭がいい筈なのに。あなたが識るまえに亡くなった技術、未来の数式だって、わたしは知っている。あなたが識らない戦争だって、あなたが識らない新作のお菓子のおいしさだって、何だって。
 なんでも知ってるの。

 それでも死んでいないの。
 どうしてか、当てられますか。



 正解をいいます。
 わたし、飽きることができなかった。

 あなたみたいに、飽き飽きできなかったの。遠くからふと見つめたあなたの退屈そうな横顔が、できなかった。ひとつを知ったら、また別のことにも興味が湧いてしまって、たくさんの研究をして、たくさんのひとと議論して、また調べて、何処へでも赴いて、たくさん眠って、たくさん書いて、考えごとのために何度も同じ道をおさんぽして。
 そうしたら、死にぞこなってしまっています。
 髪もこんなに白くなっちゃった。お揃いね。

 ばかみたいでしょう。もうとっくにあなたよりも多くのことを知っているはずなのに。
 年老いた身体の痛みさえ、あなたは知らないでしょう。
 わたしはもう、膝がいつも痛い。屈伸なんかとてもできないの。この前お医者さんに診てもらったら、膝を伸ばすたびに関節に肉が挟まっちゃってるんですって。それでどうすればいいですかって訊いたら、老化だからどうしようもないんですって。
 でもしかたないから、この膝を使って今日も歩いています。今日だって自分でお買い物に行ったわ。教え子たちには止められたけれど、それでも自力で行ってやったわ。



 まだまだあなたに勝負を仕掛けることはできそうにない。
 でも待たせるくらいは良いでしょう? あなたはわたしの告白を待つこともせず振ったのだから、おたがいさまだわ。

 わたしが死ぬまで、首を洗ってまってなさい。



 なんて。また言葉遣いを指摘されてしまうかしら。