優しいのではない。わたしはきみの不幸や絶望に興味がないだけだ。
生前、彼にそのようなことを言われた覚えがある。
興味がないから、どちらかと言えば善いほうが善いだろう、と。だからわたしに手を差し伸べるのだと。一般の尺度に合わせて。善いものは善い、と。
そんな一般の尺度になんか一切共感してはいないはずの、彼が。
幼少の彼はよくわたしと遊んでくれた。面倒を見てくれていた、と言ったほうが適切なのかもしれない。ともかく、わたしは父子家庭であって、また彼の家庭もわたしとは違った問題……いや性質を抱いていたため、幼稚園のあとはよく2人でいた。預かり保育にいた時もあれば、どちらかの家で遊んでいた時もあった。
今考えると幼稚園児ふたりだけで放置するというのは中々に危険ではないだろうかとは思う。それでも何ら問題が起きなかったのは、やはり子どもに似つかわしくない聡明さをもつ彼のおかげであろう。
とは言っても、彼は通常の幼稚園児のように振舞っていた。言葉選びも幼く、口調も舌っ足らずに。周りに疑問を抱かせぬよう、怖がらせぬよう配慮していた。
ずっと配慮していたのだ。彼は。
それが彼にとって苦痛にすらならない程度のものであっても。
わたしと彼はいつも屋内で遊んでいた。彼にそう促されたからだ。
――――おうちのなかでごほんをよもう
――――いえにおいしいアイスがあるよ
そうやって、幼いわたしを守ってくれていた。当時のわたしがそれに気づくことはなく、騙され、従順にしていた。
(何故だろう。何故彼は「外は危ないから」と、ほんとうの理由を言ってくれなかったのだろう。わたしはそんなに、……。きっとわかったのに。)
「たっちゃん」
わたしが彼を見ると、
――――なあに
そう言って、彼もわたしを見ていてくれた。
優しい彼にすっかり初恋を奪われていたわたしは、彼のあとをついて回る。たっちゃん、たっちゃん。母親にすがる子どもみたいに。いないのに。いないから、下手くそに縋って、彼に負担をかけた。
わたしは彼と手を繋ぐのが好きだった。だからとにかく手を繋いでいた。手をつなごう、と言えば、彼はふたつ返事で承諾してくれるのだ。
当然ながら、彼から手を繋ぐことはなかった。
いつも手を繋ぎたがるものだから、彼が絵本を読んで聞かせてくれている時すら、愚かにも手を繋いだ。それでも彼は嫌な顔ひとつせず、片手で器用にページをめくってみせるのだ。
……彼は器用だった。何でもやってみせた。そういった褒められたことを、彼が人に見せる気がなくとも。
「たっちゃんごほんよんで」
――――いいよ
「おててつなご」
――――いいよ
彼はなんでもいいよ、と言って願いを聞いてくれた。当時は嬉しい気持ちでいっぱいだったが、今となってはわたしのこころは淋しげにわらう。
彼の声は心地良かった。そのうえすこしもつっかえず、また聞きやすい速さで読みきってくれる。淡々としているから、抑揚はいまいちついていなかったが、それでも機械的というには余りにも生きていた。
生きている彼の声を聞いた生きているわたしの耳は、うとうとと眠気を誘われてしまって、よく、彼の膝で丸まってやわらやわらと寝ていたことを憶えている。
彼は暇だろうに、わたしを気遣って動かないでいてくれた。近くにおいてあった座布団をわたしの上に乗せて、じっと。うだるような暑い日も、ストーブを付けなくては凍えそうな日も。ずうっと傍にいてくれた。
何故なら、それを彼に所望した人間がいたから。
だからそれを彼は承諾した。それだけなのだ。
思えば、彼からわたしに触れようとしたことは1度だってなかった。優しさの安売りが何の考えなしにできてしまう、とても利口なひと。
だから、そんな利口なひとがいつしかわたしを拒絶するのも、自明だったのかもしれない。
わたしと彼との決定的な決別の日は唐突にやってきた。
まさしく、彼から突き出された絶交であった。
わかっている。彼は捨てようと思った時に捨てられる分別のある人間であり、またわたしは捨てようと思った時に捨てられる程度の人間だった。それだけの話だ。
年長の中ごろだったと思う。中休みにいつも通り彼の元へ向かうと、こう切り出された。
――――もう君とは遊ばない
目を見開くわたしをよそに、彼は伏し目がちに絶望を畳み掛ける。その口調はよく聞き慣れた彼のそれより、ひどく大人びていた。
――――ぼくは君といると、寂しくなる
そんな、よくわからないことを言われた。
わたしといると寂しくなる。わからない。多分、これも彼の方便だろう。きっと面倒になったから切る事にしたが、そう言っては酷だからと。
あんな時までやさしくしないでほしい。そんな理由で納得すると思われていたのか。
ふたりでいるのに、寂しい。……当時のわたしにも到底理解できず、できなかったが、彼がわたしから離れたがっていることは理解できた。
理解したから、すっかりわたしは拗ねてしまって、泣きそうになりながらお返事をした。
「……じゃあ、もう、たっちゃんとおはなししないようにする」
いやだ、なんでそんなこというのと泣きわめくような子どもではなく。彼にたっぷり見守ってもらったから、泣きわめきかたも忘れてしまったから、彼の言葉をわたしは拒否しなかった。
無論、彼の言葉をわたしが肯定して、彼がそれを認知して終わり。の筈だった。
しかし、彼は予想に反して固まったのだ。
固まって、わたしの瞳を見つめて、またふいと逸らして。
――――それは、…………いやだ
なんだか、苦しげに言った。苦しげ、いや、迷っているような……違う、あれは迷いなどではなかった……ああなんだ……認知しているのに、理解できない、口から出てこない、という具合だ。
どうしてだろう。何故彼が……ほんとうに言いたいことが、あった? 配慮ではない? ……わたしはこのことについて、心底後悔している。その言葉のわけを、聞けばよかった。そうしたらわたしは、もっと彼のことを知れていたのだろうか。そうして、彼のためにもなっただろうか。
彼の配慮を食い潰してきたわたしには、そんな配慮はできなかった。
「じゃあどうすればいいの?」
怒って、強く言い返した。すると彼は珍しく俯いて、黙った。
そうか。きっと彼なりに、理由があった筈だ。
そうでなければ彼が黙ることなんてしないはずだ。彼は理由のないことを滅多にしない。
だんまりを決め込む彼に、わたしはまた怒った。ばかの一つ覚えみたいに。その時はわたしなりにショックだったのだろう。だからといって、彼から施されてきた恩もすべてかなぐり捨ててまで「嫌い」なんて言う必要はあったろうか。
「もういい! たっちゃんきらい、ばいばい」
わたしの双眸からは涙が零れて、かなしくふりそそいだ。それに気づいた彼は驚愕して、咄嗟にわたしに歩み寄ろうとした。
歩み寄ろうとしてくれたのだ。
「こないで!」
彼の足がぎこちなく止まる。いつも、計算し尽くされたような相応しい動きをする、彼が。
わたしは彼を置いて、逃げた。今までずっと見守ってくれていた彼を。
もう話さない、と言ったら〝いやだ〟と言った彼を。
彼の初めての拒絶に気づかず、その後わたしは彼と縁を結ばず、そうして卒園し、もう会うことはなくなった。