思えば、なんでもないような子供だったと思う。
自分語りはたった一文で終わる程度にしか興味がない。二文にするなら、今もなんでもないような人間であるという事実を付け足すくらいだろうか。
「なまえちゃん、いっしょにあそぼ」
脳みそに釣り合わず、舌足らずな発音に見合った言葉を垂れ流していた。
不格好。その一言に尽きる。
なんでも、自分の思考回路に合わないことはやるものではない。けれど、私はなんでもないような子供だった。何かに抜きん出ることは許されない、もとい、最善ではなかった。
幼い、という感覚がわからないまま産まれてきた私は、どうやら脳の育ちが周りの子供より早いようだった。というより、そもそも。母の腹の記憶が普通にあるくらい、初めからすべて備わっていた。感動に触れることがないのだ。
私の姿を認識して嬉しそうだった彼女は、私の言葉を受けて更に幸せ、いや、救われたような顔をした。
手に取るようにわかる、その価値観。両親が死別して、母親がいない子供の摩擦熱。父親が自分を置いて仕事へ向かう感想。
父が出払っているところに、私が遊びに来た心情変化。
前世の記憶、なんてものはない。ないはずなのに、まるでいちど全てを体験したように、目の前で起きた全ての事象に合点がいく。不思議なんてなかった。毎日が冒険、ではなかった。
――――うん、うん、なにしてあそぶ?
子供はかわいい。肉体や感情に、経験が浸透していないから。
自分も子供なのに、子供を目の前にして湧くのは加護欲。とは言っても、脳で分泌されるのみで感情には適応されなかったが。
彼女の、どこか寂しさの名残をたたえた目尻は、既に綻びを得ている。他でもない、この私の意思によって。それに優越感なぞ感じはしないが、ただ、いいと思った。誰かが喜ぶのなら、それをものさしにして、最善である、と。そう思って行動していた。
何も不思議でないのに、首を傾げて、何も面白くはないが、笑ってみせた。
「なまえちゃんがしたいことしよ」
そう言ってやれば彼女は目を輝かせ、こっち、と私の手を引いた。私の靴を乱雑に脱がせて、更に奥へと引っ張る。
せっかちだ。そう、彼女は彼女の好奇心に対し、すこし度が過ぎるほどに素直だった。
そんな彼女を見て、面白くもないのについ笑みがこぼれた。忘れているであろう玄関の鍵をサッと締めてやり、手を引かれるままに歩を進める。
辿り着いた本棚の前で、手は解かれた。代わりに彼女はがさがさ、本の海を漁る。数秒経てばお目当てのものが見つかったらしい。んしょ、と小さく聞こえたら、1冊の本を面前に突き出された。
――――たっちゃん、ごほんよんでっ
真新しいぴかぴかの表紙にひらがなで題名が印刷されている。私たち子供を対象に出版された、所謂、絵本。父親に新しく買ってもらったのだろうか。
「いいよ」
拒否、しない。別に嫌ではないから。他にやりたいこともないから。それで人が喜ぶから。
汚れひとつないそれの、硬い表紙と数ページをぱらぱら捲る。読んだ形跡は、ない。おそらく父親の仕事帰りに買ってきては貰えたが読み聞かせるところまでは面倒を見てくれなかった、いや、見られなかったのだろう。
幼少の彼女はずいぶん私を母親のように慕っていた。そのちいさくてまるい手で私の手をきゅ、と掴みながら絵本に夢中になる彼女は結構、さみしがりやさん。保育園で私が彼女でない子供と遊んでいると、指をくわえてじっ、とこちらを見てきたものだ。声をかけたりはしてこなかったが。
気づいて、こっちに気づいて、と言うような泣きそうな目で見てくるだけ。けれど他の子と私が手を繋ごうものなら、ちいさな歩幅を一所懸命に伸ばしてその繋がりを1秒でも早く引き剥がそうとする。たっちゃんはなまえとおててつなぐの。そうやって喚いて私の手をやわっこくて非力な手で握る。私には大人のような落ち着きがあったからか子供からよく懐かれた。けれど彼女がそれをすべて払い除けようとする。その件に関して、特に未練はない。
――――たっちゃんはなまえといんの
私をとられて泣き喚く子に、彼女はそう教え込んだ。そんなことはどんなに崇高な本にだって書いてないが彼女の好きにさせる。泣いてしまった子を彼女の機嫌を損ねない程度にあやして泣き止ませたら彼女に手を引かれるまま外へ出た。
――――ぼーるあそびしよっ
蛍光のピンク色に光るボールを、両腕でにぎにぎと胸に押さえつける彼女。にひひっと笑う顔は、年相応にきらきら光っていた。
彼女はボール遊びが好きらしかった。と言っても当時の彼女はまだボールを使ったスポーツは覚えられていないようで、お互いにボールを投げ合うだけだったが。
すこし退屈だが、すこし退屈だから、退屈しのぎにはちょうど良かった。
「いいよ」
言って間もなく、えい、という掛け声と共に宙に浮かぶボール。彼女はなかなか、コントロールがいい。おかげで、ボールを追いかけたり、無駄な動きをせずに済む。私は彼女同様、ちいさな手で、ボールをキャッチした。
周りでは彼女のように、跳ねて遊ぶ子供たちの声がする。心底楽しそうな笑い声だ。ボールが空を舞うすこしの間、辺りを見渡す。面白くもないのに、つい笑みがこぼれた。
不釣り合いだ。
もちろん、嘲笑ではない。嘲笑するほどの変化は私の中に生まれなかった。かつ私は年相応の子供を嘲笑うほどひねくれては居らなかった。彼女についても同じ、嘲笑うことなく、愛することなく、単純に私の体外のものだった。
だがその考えもある瞬間に内側から破壊されることとなる。
端的に言ってしまえば、起点は「初めて私から彼女に触れたこと」であった。
彼女はよく私の膝上で丸まって寝ていた。私はそれを良しとしていた。そうしたいのなら、そうすべきなのではないだろうか。その程度。だから、寝ている彼女に対してこれといった干渉はしてこなかった。
だがある日、私は己の膝上で眠る彼女の頭を、数回撫でつけた。
今までにしたこともされたこともなかった事象だ。撫でている自分に気づいた時、私は驚いた。それも初めての感覚であった。私は己に意外性を見い出すと感情が揺さぶられるようだ。心底驚いた。
驚愕して固まる私のことなどつゆ知らず、彼女は心地良さげにすうすうと眠りこけていた。その閉じられた瞼をじっと見る。…………やはり何とも思わなかった。原因究明には至らず、やはり疑問が残った。
頭を撫でる。私の体にそこまで染みついていない動作が無意識的に発動した。
システムの故障には形式的な原因が必要不可欠だ。逆に言えばシステムを復旧させるためには、形式的な原因を発見できれば良いことになる。それを見つけられないとなると、あまり良いことではなかった。
その日から疑問を抱きながら彼女を見ていた。以前とは違った違和感を覚えながらも、今までと変わらず。絵本を読んで、手を繋いで、彼女に手を引かれて、…………それで気づいた。
彼女は自分で手を繋ぐことを望んでいながら、いつも自分から手を離すのだ。
彼女は常に私と共にいることを最善としていたが、時には最善を選ばない時だってあった。帰る時間になれば彼女は素直にそれに従った。私ともっといたいと、私の手を握りしめることはなかった。
彼女は逆らわないのだ。私を理由にしても、逆らわない。私は彼女の反逆の理由にはならなかった。そうして、私にも逆らわない。わたしに好き勝手に望んでおきながら、言われたことに逆らうことだけはしない。
はっきり理解してぽっかり空いた思考回路を充たしたのは、なんとも言えぬ虚しさだった。私は彼女に何を注いでいたのだ。なんだ? ただ空虚。
そんな時分だった。父が私に数枚の資料を寄越したのは。
ある夜、自室のドアがノックされたので応えると父が入ってきた。父はただ無言で紙束をテーブルの上に置いて踵を返した。そのまま、何も言わず出ていった。
父が去ってからそれを手に取って読む。…………小学校受験案内。
どうやら私はそれを受けるようだった。
つまり、ああそうだ。彼女との別れが決まった。
きっと彼女はそれに逆らわない。……いや、逆らえるはずもない。彼女の家庭環境では小学校受験の可能はほぼない。おそらく義務教育は全て公立学校を選択するであろう。
考えずとも既に頭の中に構築されていた事実だ。だがそれを改めて認識したとき、私は明らかに彼女に向ける何かを変えた。
――――たっちゃん、おままごとしよ
私は彼女と共にいた。確かに、居たのだ。
「…………いいよ」
それでも、何故。何故だろうか。共にいる。いるのに、……ぽっかりと空いている。なんだ、これは。いるのに。独りではないのに。……寂しい? ああそうかこれは寂しいというのだろうか。知っていたが経験にはない。そうか。実体験を伴うと解像度が上がる。成程。では何故1人では感じない寂しさが、彼女と共にいる際に顕れるのだろうか。道理に合わない。変だ。
私としてはそういうこともあるのか。知識に入れておこう。
それはそれとして、彼女と共にいる際の寂寥感は由々しき問題で、私としてはこれを排除せねばならない。
そうして別れを告げた結果が、あの9年間だ。
昔の私に是非問いたいのだが、彼女といるから寂しくなる、というのは、何処かしら曲解しているかもしれないと疑うことは、ほんのすこしでもなかったのかね。
昔の私の脳みその、愛おしいところをつつこう。
お前は彼女との別れを見据えて、それを寂しがった。
単純すぎるが、どうかね。
疑問は晴れたか? 痴れ者。