9年間はわたしを育てるに十分な時間だった。そのうち彼の記憶も薄れて、なんてことない美しい思い出へと昇華されていった。
彼とわたしは家が近かったから、ばったり出会ってしまう可能性もあった。けれど、彼は学生寮に入ったらしく、その心配は杞憂に終わった。
小学校も中学校も、それなりに楽しいものだった。友達も沢山できたし、憧れの人もできた。
ただ恋は芽生えなかった。正体のわからない過去の心残りが蔦のようにわたしの眼を包んで、かくしてしまう。……心残りの中身はなんだろうか。わかっていなかった。
父はわたしに高校へ行くことを勧めてくれた。大学へも行くといい、と。だから大学受験を考えて高校を選びなさい、と。
わたしは父に感謝を伝えて、早速高校について調べた。近場で探してもいいが、すこし遠くでも問題ない。偏差値はそれなりに考慮しなくてはならなかったが、父は何処でも良いと言ってくれたのだ。選択肢は幸福にも多かった。
ある日、高校の資料請求のため郵便局へ向かう途中。
見たことのある白髪が目に映って、わたしの心臓はひとたび止まった。
目立つのだ。彼は。何処へ居ても見つかってしまう。見つけてしまう。
しばらく見ないうち、彼の背は随分高くなっていた。肩幅も男性らしく幅をとって、それでもしなる四肢はうつくしく。すらりとスーツを着こなしてみせている。中学生とは思えない、まるで大人のような…………。大人のような?
結果から言うと、わたしが見つけたのは彼のお父さんであった。流石に違和感を覚えたので小走りで近づくと、ふいとこちらを振り返った彼のお父さんと目が合った。
――――ああ、君は
幼稚園時代以来久しく会っていなかったにも関わらず、すぐにわたしだと認知してくれた。わたしはそれにすこし驚いて、しかし失礼にならないよう軽く会釈をした。
「あの、お久しぶりです。何をしていらっしゃるんですか」
彼のお父さんが外出することは珍しい。仕事はすべて家で済ませることのできてしまう人であったし、別段外に興味関心を向ける人ではなかったから。
お父さんはわたしをじっと見下ろして、ぼんやりと瞬きをしたのち、答えた。
――――息子の学費を支払いに、郵便局へ
目的地が同じことと、彼のことが唐突に話題に登ってきたことに身体が跳ねた。
「……あの、ついて行ってもいいですか」
するとお父さんは怪訝な顔をした。
――――何故
しまった、と思った。まずは目的地が同じであることを伝えなければ。学費の支払いについて行きたがる変な人になってしまう。動揺のためか、失念していた。
「丁度……あの、目的地が一緒で。わたしも郵便局に用事が」
わたしの言葉を聞き届けると、お父さんは踵を返してまた歩き始めた。返事はなかった。…………良いということなのだろうか。
承諾もなかったが、拒否もなかった。どちらでも良い、ということなのだろう。
本当にどうでもいい時、お父さんはああするのだ。返事はしない。踵を返して視線は寄越さず、好きにさせる。好きにさせる代わりに、好きにする。自分のことも、他人のことも、皆等しくどうでも良いのだ。
わたしはお父さんの斜め後ろをついて行った。お父さんの歩幅に合わせて、早歩きをして。特に会話がはずむことはなかったが、わたしが話しかければお返事をしてくれた。勿論、向かう最中にお父さんから話し始めることは一切なかったが。
とはいえ、わたしとお父さんとの共通の話題なんていうのは、やはり彼のことしかなかった。
話しかけるにしてもそれなりに躊躇する相手と話題であったが、それよりも沈黙に耐えきれずに口を開いた。
「その、……龍彦くんはお元気ですか」
――――どうかな。死亡通知は届いていない
「えっ。あ、寮制でしたもんね」
返事はなかった。どうやらお父さんとしては会話は終わったものらしい。わたしは戸惑いつつも話を続けようとする。
「……その。わたし、今から高校受験の資料請求に行くんですが。龍彦くんも高校受験はなさるんですか?」
――――息子の学校は大学までの一貫校
「あ……そういえばそうでしたね。父から聞きました」
わたしの父と彼のお父さんは、わたしたちの入園式以来交流を続けていたようだった。だから彼の情報は主に父から聞かされていた。
父は彼のお父さんについてよく、つれないやつだ、とか淡白だ、とか愚痴をこぼしていたが、それでも興味をひかれていたらしく、果敢に立ち向かっていた。
「父がご迷惑をおかけしていたり……しませんか」
控えめに聞くと、お父さんはすこしだけ黙って、また答えた。
――――君が気に病むようなことは何も
ほっとして、そうですか、と呟く。それなら良かったです、と言葉を続けようとすると、意外にもお父さんのほうから回答を続行させた。
――――ただ、酒を入れると君の話で、うるさい
戦慄が走った。
それはわたしが気に病むべきことではないか。
父が酒を呑む仲にまでこじつけていたことにも驚きだが、ともかくわたしは父の粗相を謝罪しなければならなかった。
「すみ、すみません、父にはわたしから言っておきます」
…………無言。また会話終了なのか。
ああ言われてしまったから、話しかけづらくなってしまった。そのあとは淡々と歩いて、郵便局に辿り着いた。
お父さんは何やら用紙に記入せねばならないらしく、郵便局に入った途端ひとりでスタスタと記入ブースへ行ってしまった。取り残されたわたしは自分の用事を済ませるべく窓口に並んだ。
わたしのほうが早く終わったので、お父さんを待つことにした。入り口付近でじっと待っていると、振込を済ませたお父さんはわたしを見て数度瞬きをした。
「……あ、一緒に帰ろうと思いまして」
言い訳を述べると、お父さんはふいと目を逸らしてまた歩き出した。わたしも後を追う。
並んで同じ道を歩いた。何の話をすればいいのかはわからなかったから、ただ黙って。話すことがなければ別々に帰っても良かったのだが、用事が早く済んだからといって置いてけぼりにするのは、失礼にあたるのではと勝手に思ったのだ。
お父さんとの沈黙の時間にも慣れた。……ただ、彼に似ているひとと歩けるだけでいい。そう思っていたふしも、あったかもしれない。
――――君は
どきり、とした。
お父さんから話しかけてきたことは、これがはじめてだった。
――――君はどの高校に入るんだ
……。驚きで、すこし呆けて。質問の内容を改めて認識して、困惑した。
まだ、正確には決めていない。かつ、わたしにとって高校というのは入ろうと思って確実に入れるものではない。利発な彼等からすれば、ここと決めたら絶対的に入るのだから確定事項を訊いてきたのだろうとは思うのだが。
「……まだ決めていません。あ、でも……おすすめとかってあったりしますか?」
折角お父さんから話しかけてくれたのに、曖昧なお返事だけで済ませるのは嫌だった。無理やり質問を付け足す。
――――……。他人に勧めるほど高校について詳しくない
お父さんも、おかしな質問だと思ったらしい。どこか歯切れの悪い回答。自分が恥ずかしくなった。俯く。
「……すみません。変な質問でした」
――――私が知っているのは
……。俯いていた顔を、咄嗟に上げる。
――――息子の高校だけだ
いま、唐突に気づいた。
行きは早足だったわたしの歩き方が、今はわたし本来の歩き方になっている。
「…………すみません」
足を止める。お父さんも数歩遅れて止まってくれた。こちらを振り返って、見ていてくれる。
「わたし、ちょっと用事を思い出しまして。郵便局に戻ります。お話ししてくださって、ありがとうございました。お気をつけて!」
ぺこりと頭を下げて、さっと踵を返して郵便局へ走り出す。
魅力的だなと思った高校はたくさんあった。そこから幾つか絞るのは中々大変だなと思っていたが、どうしたことか、ああ選択肢がひとつ増えてしまった。