安心するといい。私のいない君の人生は、きっと上手くいく。
その言葉ひとつきりで、彼はわたしの前から姿を消した。
………………それからの生活を綴るべきか、それともまだ、彼が消えた心情について述べるべきか、わからない。
わたしは彼に恋していた。けれどそれは受け入れられなかった。なのに、道に倒れて彼の名前を呼び続けたい感情もなかった。
あの時の感情は、どんな風にひねっても心余りて言葉足らずになってしまいそうだから、明言は避ける。要素だけ言えば、恥と、焦りと、ひたむきと……なんだろうか。恥の熱があつすぎて、あまりに灼熱で、物悲しいつめたさを抱くことはできなかった。自分の感情と思考からなる摩擦熱に呆然としていた……
あのあとは、父が泥酔して寝たことで解放された彼のお父さんがキッチンへ来て、わたしの涙を見た。お父さんは珍しく目を見開いて、固まった。
お父さんは無言でいて、けれど珍しく焦っているようにも見えた。いつもの視線の虚ろが、ぎこちなかったからだ…………そのうち、子どもみたいに手を握られた。
――――……、…………
何かを言おうとして、やめる。それを数回繰り返す。
最低なことにわたしは、その優しい手のひらに違いを覚えた。
このひとではない。そう思ってしまった。
わたしがすきなひとはこのひとではない。ちがう。なぜあんなことを言ったの。わたし、怒っています。わたしは怒っています。何故あんなことを、よくも言えましたね。
わたしは完全に、救われないひとになってしまった。捨てられたひと、排除されたひとで、彼はそれを明確にした。そういう結果だけがわたしに残された。
これを背負ったまま このまま生きるのか
それを思えば、死んでしまいたい気もした。でも、なんだか意趣返しみたいになってしまう気がして、これ以上どんな形であれ彼と縁を結びたくはなかったので、生きていた。
彼はわたしを最低にする。それだけ。それだけだから、それ以上は望むな。
…………
彼について、不思議なことがひとつある。彼の母親についてだ。なんだか悪い気がして、疑問に思うことも控えていた。そのことを明確に疑問に思ったのは、紛れもなく彼から投げられた発言によってであったが、……ちがう…………彼はもうわたしには関係がない……彼のお父さんにも……じゃあ何故こんなもの認めて、……
…………
言葉の通り、彼は消えた。彼を見かけなくなった後に数回、黒いスーツの人々が彼の家へ押しかけているのを見たが、肝心の彼はいないようだった。
そのうち、彼はいないことになった。
彼に関する全てが消えていたのだ。それは不思議なことであったが、不思議と成り立っていた。確認などはとっていないが、大学院でも恐らくは除名されているのだろう。
彼のお父さんは飄々としていた。政府が自分の息子を何らかの形で兵器にするつもりで情報を隠蔽し、身元不明にしたいらしい。その程度の認識。政府からの口止め料は受取拒否した。とか。君も口を閉ざしなさい。とか。
「澁澤さん」
あまりに自然に消えていて。
「貴方に、子どもはいませんか」
訊かなくてもいいことを、訊いたってしかたのないことを。わたしは明確にしたがった。
――――いないな。子どもは作っていない。第一、私は独り身だ
…………
わたしは何がしたいのだろう。何がしたかったのだろう。
彼がいないと何も出来ないほどの白痴ではなかったはずだ。そこまで落ちぶれてもいられなかった。けれど、彼のお父さんを見るたび、誰かを重ねたはずだ。その柔らかい瞼と冷静な紅色に、わたしを見抜いてもらいたがったはずだ。解ってほしかったはずだ。
やっぱり死んでしまえば? いや、そんな勇気は。…………普通に、生きるだろう。何は、何かはなくとも、生きるしか。……
わたしは生家を離れ、勤め先の近くに引っ越すことにした。やはりその決断において彼の存在は大きかった。
わたしは彼を忘れることにしたのだ。思い出にしてしまって、いっそ綺麗にしてしまおうと。遠く遠くにおいやって、美しい思い出に。あんな頃もあったと笑える日が来ると。そう、わたしの苦悩も、恋も虹も窓も笑い……全部笑ってしまって、良いのだ、と。
寂しがる父を置いていくのは心が痛んだ。ずっとふたりで暮らしていたし、母の形見としてのわたしの役割というのもわたしは了解していたから、申し訳ないと思った。たくさん電話する、たまには帰ってくると言ったが、それでも寂しげだった。そこで、門出にはネクタイと傘を贈った。これで万が一わたしが死んでも形見が遺る。高価なものを。高価なものを。高価なものを。
彼のお父さんには不思議と止められた。行くな、と明確に。いいえ行きます、と応えると、お父さんはすこし苛立ったように書斎の椅子から立ち上がって、私が似ているからかと言った。続けて、それは違う、あれが私に似ているのだ、と。
あれ、とは。わからなかった。
夜食を作れなくなってしまって申し訳ない、たまに手紙を送ってもいいかと訊くと、お父さんは黙って、それでも怒りは静まって、電話でないほうが良いんだな、と言った。わたしははいと答えた。
みんな、馬鹿だ。
何かを愛していないと生きていけない。
みんな、みんなそうだったのだ。愛の証を手元に留めて、愛すことを追求し、己の愛が最も秀逸であると自信を持ちたく、愛されることを許容して、己を愛さない者に愛されたいと思うことを。
わたしははじめから彼を愛してなどいなかった。ただ、恋焦がれていたのだ。だからこうも歪に育つ。彼が歪なのではない。ただの美しい彼がわたしを歪にするのだ。
愛では、ない。痛みはない。
愛する人を失ってなおわたしを育てた父にも、同じことが言えるのか。
書いてきた言葉たちで、動けなくなってしまった。
次回にする。