「結局、あれから桔梗は見ていないな。」
みょうじは仕事を捌きながら、この頃復帰した識阿にふと思いついたように言った。
「未だ用心して下さいよ。行き帰りの迎えは必ずしますからね。断らないで下さい。」
「分かってるよ。わたしだってもう桔梗には逢いたくは無いんだ。殺されるのはさておき、気まずいじゃないか。」
みょうじは煙草をふかしながら、嫌な顔をして呟いた。識阿はみょうじの指から煙草を取ると、自分の口へ持っていって吸い始めた。
「あ。何をする。」
「煙草代を浮かすと共に、主人の健康も守る。Efficientというヤツですよ。」
「調子が善いね。」
みょうじは識阿の言い分に満足すると、机の上に置かれた電報を識阿に手渡した。識阿は用心深く受け取ろうとしない。
「何んです。」
「澁澤家の人から食事の招待。」
「御子息本人からではなく。」
「そこなんだよ。其れが何んだかおっかなくてね。」
「まあ、御両親の憂いという物もごもっともですから。」
「わたしには力になれそうも無いな。断りの返事を打っといてくれ。」
「では、参加と。」
「オイ……。」
「今は材木の高騰が尋常では無いので。媚は売っておく物です。」
「……。背広で行くからね。」
「洋服です。」
「持って無い。」
「買いに行きましょう。」
「君も行ってくれないと嫌だ。」
「構いませんよ。」
識阿の応えに少しは気が乗ったらしい。
「じゃ善いよ。」
「矢張り一寸行きたくなくなって来たんだが。」
「もう遅い。」
「だって、此れは幾ら何んでも企み過ぎるだろう。」
みょうじはすっかり青ざめた顔で識阿の後ろに隠れてしまった。そんなみょうじを識阿は残酷に宥める。
「ナア。白の洋服に赤の頸飾だって。ナアナア……。」
「彼の連れにぴったりですね。」
「止めろよオ。」
誘いを承諾した後、澁澤本人からみょうじの元へ荷物が届けられた。中を検めて見ると、其れらはみょうじの心労を大きく増やす物達だった。
「此れ着て行かなくて善い?」
「礼儀に反します。」
「参った……。参ったぞ……。」
嫌な予感はしていたが、遂々澁澤の意図を把握した。澁澤がみょうじを、両親に何んと言って説明しているかが善く分かってしまった。そんな心算は無かったみょうじは胃から焦げ臭い匂いがするまで悩んでしまった。
「面と向かって否定するのも辛いじゃないか。」
「否定しなければ善いのでは。」
「そんな事するなら私達の主義に反して君と婚約した方が善い。」
「其れは本当に最終手段ですよ。」
「兎も角、一旦仕舞い直してくれ。目に毒だ。」
識阿はみょうじの言う通りにしてやった。其れで少し落ち着いたらしいみょうじはやっと荷物の前の椅子に座り直した。
「矢張り断れば善かった。」
「彼の人生の華になってやる位に考えてみては如何です。」
「わたしで彩れる程の人生なら、彼はああは成って居ないさ。」
「だからこそでしょう。」
「ナアところで君と選んだ洋服を持て余してしまった。そこで提案だが、今夜は君とわたしで食事に行かないか。善い処連れてってやるよ。」
「付き添いには期待しないで下さいよ。」
「君は何時もしてくれてるだろ。」
「その位の期待なら喜んで応えましょう。」
一転上機嫌になったみょうじは椅子に深く座り直した。
「澁澤様との食事会の練習ですね。」
また不機嫌になった。
調子に乗って葡萄酒を呑み進めたみょうじはすっかり酔ってしまって、今夜も識阿に家まで送ってもらう事となった。
「しっかりして下さい。間違っても澁澤様との食事会では呑んではいけませんよ。」
「今日はいけると思ったんだ……。君だってわたしが一瓶空ける瞬間を見たいだろう。」
「見たくありませんよ。半分もいって無かったでしょう。」
みょうじはぶすくれた。
「ナア何故今日はおんぶしてくれない。」
「洋服じゃ無理ですよ。」
「ナアナアナア……。」
「駄目です。」
やっと居間にみょうじを運び込んだ識阿は中の煙草の匂い、埃っぽさに眉を顰めた。
「そろそろ家政婦を雇ったら如何です。」
「嫌だね。」
「即答ですか。せめて換気はこまめにすべきです。」
「分かった、分かった……。」
みょうじは安楽椅子に寝そべると、もう其処から動こうとはしなくなった。自分の格好はすっかり忘れている様子だ。
識阿はみょうじの合鍵は持たない主義であった。その為自動的に今夜は此処で寝泊まりする事となる。本当はみょうじの家に寝泊まりする事も彼の主義に反する事だったが、今夜ばかりは酔い潰れ過ぎているので鍵を閉めてはくれなさそうである。
識阿はみょうじの為に毛布を取りにみょうじの寝室へ向かおうとした。するとその時丁度来客の音がした。仕方なく家主でなく識阿が其れに応対する事とした。一人暮らしには広い家の玄関へ辿り着くと、来客の確認の為にハイと言って扉を開ける。
「今晩は。此処は、なまえちゃんのお宅で合っていますか。」
