館長からまたみょうじの元へ電話があったのは、たったその一週間後のことであった。
みょうじは流石に吃驚して電話を引継いだ。
「ええ? また彼奴か。」
「それがもっとややこしくなったものでね。まあ兎角一寸此方来てくれ。」
「嫌だな恐ろしい気がしてきたぞ。」
「いいや君が来ないと始まらないんだよね。」
「分かったよ。どうにでもなれ。」
みょうじは持っていたペンを机上に放り投げると、ジャケットを着直して煙草を一本やった。本当は早くゆかねばならないのだろうが、その実はあんまり知ったことではないのである。
「面倒だネ。」
煙を吐いた。
Knabe sprach: "Ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!"
Röslein sprach: "Ich steche dich,
dass du ewig denkst an mich,
und ich will's nicht leiden."
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
みょうじは余りに吃驚してしまったから、何も言えなかった。
「そんなことを?」
「ああ全く母娘揃って困り種だよ。俺は色恋に責任を持ち込むなんて馬鹿げた唯心論は嫌いだがね。商売人としちゃ言いたくもなる。心とは詰まり商売だね。」
「何言ってんだ。色恋なんて色のない口で言うもんじゃないよ。」
今回は長女のことではなかった。みょうじのことであった。
「おおすっかり鳥肌がたってしまった。わたしはもう此処から失敬していいか。」
「それじゃ困るよ。君によって生まれた奴の感情は、君が責任を取らないと。」
「やめてくれ。」
館長の話はこうだった。先日みょうじの長女の相手をした男娼が、まるで客を取らなくなってしまった。無理に客を取り付けても、ツンとして全く相手をしないそうだ。折角の逸品がそれじゃ困ると飯を抜いたり叩いたり色々折檻したそうだが、それでもてんでだめらしい。もっともこれ以上やると傷がついてしまうから、叩きはしないそうだが、次は飯を出しても本人が食おうとしなくなった。飯を食わないということを逆に覚えさしてしまった具合である。
「だって、お前に逢いたいと言っているんだぜ。飯も喉を通らない感情と言ったら、そうだろ。」
「だってわたし何もしていないよ。ああ確かに金はやったが、そうか、金目当てか。しまった。気前よくチップなんて渡すんじゃなかった。」
「ああ何君金見せびらかしたの。それじゃ、気をひいて身請けさせようという算段かもね。」
「違いない。ああ全く大変だな。この頃は物も金、人も金だ。人骨購いを勧めてくる商人が居るくらいだもの。」
みょうじは兎角じゃ一回逢ってみようかね前とおんなし部屋かいと進めて、財布をしっかりポケットの底に沈めて奥へ向かった。
ギシギシなる床は今にも落ちそうだ。みょうじは先日の部屋の前までいくと、一寸考えてノックせずにサッサと入ってしまった。
中は先日より酷く荒れていた。ところどころに色んな物が散乱していて、とても人が曖昧をやっているような場所ではなかった。
「なんてざまだこりゃ。一体どうしたらこうなる。」
みょうじの声がした途端、突如として奥で何かか揺れた。それは先日の男娼であった。あんまり部屋が汚いのですぐに気づけなかったが、輪郭を辿れば確かに人だった。
またみょうじを捉えるその瞳は珍しくて、みょうじは居心地が悪かった。
「どうも久しぶりで。元気は無さそうだがまあ活きは善さそうじゃないか。」
みょうじが片足で雑に物を退けると、一人分座れる場所が出来たのでそこに座った。
「コラそんな隅っこで膝抱えているなよ。此方に来なさい。」
途端、男娼はガタガタと壊れた機械みたいにふためいて動き出し、みょうじに言われたとおりにみょうじの目の前に座った。英語は通じるらしい。着物の上は乱れたまま、目をかっ開いて突進してきたものだから、みょうじは矢張り一寸おっかなく思った。その目の周りに飢餓の予兆があるのも、何かと縁起の悪いことだった。
「オイ……せめて物を退かしてからお座り。それじゃ脛が痛いだろう。」
男娼はみょうじを見たまま、目をぱちくりとさせた。のち、言われたのでというふうに、物を退かしてから座り直した。
これはヤッパリ何か嫌なんじゃあないか一一。みょうじはそう思ったが、来てしまったものは仕方がないので、館長に少しばかりの償いをするつもりで口を開いた。
「君わたしが大金持ちと勘違いしているようだがね。全然違うんだそんなことないんだよ。だからね、館長の言うことには従っておいで。そして君はその美貌で大金稼いで生きるんだよ。」
「貴女がそう仰るのなら、そうします。」
ぽかんとした顔のまま、何となしに返事をされた。今度はみょうじがぽかんとした顔になった。
「綺麗な声でお返事もらっておいて悪いが、そのなんだ……君わたしをからかっているか?」
「いいえ。」
「わかったわかった。幾らだ。」
「何がでしょう。」
「幾ら欲しいと訊いてるんだよ。生憎身請けするほどの金はないが、君のわたしの忘却代ということで一つ手を打とうじゃないか。」
「受け取りません。」
「何故。」
「忘れては困りますので。」
じっと目線は合ったまま。みょうじは何だか胸の辺りがざわついて仕方がなかった。矢っ張り身請け狙いかと納得したい気持ちがあるのだが、それを願望と捉えてしまった時点で、みょうじの心はひどくギクリとしたのだ。
「なんだ……ええとじゃあ、邪魔みたいだから、帰るよ。」
みょうじが立ち上がろうとすると、男娼は元々丸かった目を真ん丸にして驚いたふうな、捕らえるような顔をした。そうして蛇みたく素早くみょうじの体に絡みつくと、みょうじの膝上に乗ってすっかり尻を落ち着けてしまった。
「邪魔ではありません。ここに居てください。」
みょうじは余りに吃驚してまた座り込んでしまって、ただ男娼の吐息を肌で感じた。紫の瞳がみょうじの視界を包む。
「ここに居ろと言ったって、しかしわたしは君を買ったりしないよ。」
「では連れて行ってください。」
「何んだ……何んだか、一寸よく分からなくなってきた。オイ離れてくれ。何んだ、お前は……。」
「離れたら連れて行ってくださいますか。」
「しないと言っているだろう……。」
「ではぼくと此処で一晩を。夢のようにしてみせます。きっとぼくに夢中に成りますから。」
途端、みょうじの喉はアハハと鳴った。
「宣戦布告というわけか。男娼にしちゃ豪気だな。」
その強気に一寸興味を惹かれたみょうじは、頭の中を一度スッカリ空にした。同衾なぞはしてやらないが、少しばかり話し相手に据えようと思ったのだ。
「退きなさい。少し話をしよう。」
「逃げませんか。」
「どうかな逃げられないのはお前のほうだよ。そこに座って、正座はおよし。長くなる。」
男娼はすこしの沈黙の後、みょうじの上から退いて、寝台の上に散乱した物を床に落としていった。十分な空きを作ると、寝台の下で正座した。
「どうぞ。お座りになってください。」
「座るったって、此処は君の仕事場だろう。その……そうだろ。」
「お構いなく。」
お構いをしてほしいのは寧ろみょうじのほうであったが、仕方がないので促されたとおり寝台の端に腰を降ろした。一寸遠くの横を叩く。
「ホラ君も。」
「はい。」
男娼はみょうじの直ぐ横に座った。みょうじはへんな顔をした。
