「そんじゃ先ず君の名前でも訊こうか。」
 気を取り直して、みょうじは平静を装ったふうにのんびりした。
「時間の分だけ金は払うけど、男娼としての気は張らなくて結構。単純に、わたしの話し相手になってくれ。易いものだろう。」
 みょうじはそう言いつつも、自分の中に一種の矛盾と罪悪とか渦巻いているのを感じた。こういうことの常というのは、客は自然で労働者は敬語なのである。
 みょうじは頭を払った。みょうじは考え尽くすことを嫌っていた。
「ぼくの名前はフョードル・ドストエフスキーといいます。」
「ええ? 君馬鹿、本名は大事に仕舞っておくものだ。わたしはね、此処での名を訊いたんだよ。」
「ぼく、貴女にはほんとうの名前で呼んでいただきたいのです。ほんとうの名は貴女にしかお伝えして居りません。どうぞ叶えていただけませんか。」
「そりゃ構わないけれどね、わたしは君が他人に言っていないことを言ってしまいたくはないからね。此処での名も教えてくれよ。」
「キキョウ、と呼びます。館長らは。」
「桔梗。君んとこの国花でもないだろうに、アハハ紫だからか? まあ君にぴったりだね。シベリヤにも咲いていると聞くよ。あれだよ。balloon flowerだよ。」
 ところでみょうじは桔梗の心には既に気がついていた。しかし向かない心に向けられても目隠しして知らん顔をするものである。つまり真に受けると恐ろしいというだけなのだった。
「それじゃフョードル、ああ名前そのままは不親切か? 君の名前の場合はどう換えるんだ。フーリャ?」
「貴女がそれをぼくとして呼ぶのなら。」
「やめてくれ。わたしは疎いんだよ。正解を提示してくれないといやだ。」
「フェージェニカ。」
「フェージェニカ。」
「はい。」
「やけに長いな。わたしは略称を訊いたつもりだが。君もしかして愛称の方を言ってないか?」
「はい。」
「略称は。」
「……。」
「君わたしに従順と見せかけて結構我儘だな。じゃあ桔梗の方が言い易いね。」
「フェージャです。」
「フェージャね。」
 みょうじはそういうのを結構好ましく思った。猫みたいな桔梗の態度がそそるのだ。一時の楽しみに丁度いい。
 何か話の種になるものはと周りを一遍見渡してみたが、桔梗が抵抗したのか館長がぶちまけたのか知らないが、客から貰ったであろう桔梗の私物が散乱しているだけであった。本、メリンス、似合いそうもないシルクハット……客からの贈物の話をするのはまずかろう。
「これを訊くのは少し残酷かもだが、君どうして男娼なんかになったんだ。乞食ではないのか。」
 言おうとしたが、これもやめた。
「昨日はわたしの娘が済まなかったね。嫌なことされただろう。」
「いいえ。嫌ということはありません。ですが、矢張り貴方のお子さんなんですね。」
「おや。一寸ばかり日本語も分かるのか。」
「少しなら。」
「おや凄いね。そんならフェージャはきっと利発でいい子なのだろうね。」
「ねえそうだ、ぼくに日本語を教えてください。そうしてくださったら、ぼくきっと完璧に覚えてみせます。」
「君事ある毎にうちへ来たがるなあ。そんなに此処は嫌かい。」
「ぼくは貴女の元へ行きたい。」
「どうしてそう思う。」
 これも訊くのはやめた。
「アハハ嬉しいことを言ってくれる。でも直ぐには無理だよ。此処の館長とは昔からの知り合いだが、奴の業突くはよく知っている。知り合いだからとまけてはくれないだろう。」
「ぼく待ちます。ずっと待っていますから。」
「そうかい、そうかい。フェージャはいい子だね。そうだ何か買ってやろう。そうだそれがいい、それで。何が欲しい。」
 桔梗は少し考えて、それならばと口を開いた。
「ロザリオを。」
「ロザリオ。十字架かい。」
「はい。」
 みょうじは一寸困った。自身が持っていないものであったから、つまり探して購入することになる。
「祈りはそれのみで届きますから、ぼくには不要なものですが、貴女は目に見えぬものがあまり好きではなさそうですから。」
 どうして自分のことが出てくるのか、みょうじには分からなかったが、ひとまずそれを贈れば間に合う・・・・のであろうと膝を打った。
「善いだろう。次来るまでに、用意しておくよ。」
「きっとですよ。破ったら嫌です。」
「ああ約束するよ。ただ一寸時間がかかると思うから、根気よく待っていて。なにせ買ったことがないものだから難しくてね。けれど何んとかしてみるよ。しかし、ここまで言って見つけて来られなかったら申し訳ないな。」
 みょうじは一寸言い過ぎたかなと思った。後ろめたい時は、どうも言葉を足してしまう。
 桔梗はみょうじの言葉を聞いて甘ったるくなったらしい。スルスルと音もなくみょうじに抱きつき終えていて、矢っ張りみょうじは恐ろしく思った。
「ねえ。脱がせたら、怒りますか。」
「そりゃあね。わたしはしに来たわけじゃあないからね。」
「見るだけです。見るだけで構いません。ぼく、見たいのです。」
「見るのはわたしの子供だけだよ。」
「では、ぼくはいつか見ましょう。」
「アハハ。何んだいわたしは子供として君を身請けするのか。それが善いね。夫婦になるには桔梗というのは些か縁起が悪かろうね。」
「ああ、待ち遠しい。ねえキスは赦してくださいますか。一つだけ、一つだけですから。」
「生憎わたしの唇は煙草のものでね。男娼らしいことがしたいなら、そうだね、わたしの煙草に火でもつけるかい。」
 みょうじが煙草を一本咥えると、桔梗は寝台の傍からマッチ箱を取り出して灯してみせた。みょうじは火を受け取ると、しばらく無口になった。そうしてみょうじをしっと見る桔梗をちらと見ると、何んだかそうしてやると喜ぶような気がしたから、みょうじは桔梗の首元の、髪に隠れて見えないところに煙草の熱をじゅッと押し当てた。
「じゃあネ。」
「はい。」
 みょうじはふらふら立ち上がると、後ろは見ないで金を投げ、サッサと部屋から出ていってしまった。
 館長に軽く挨拶しようとカウンターへ行ってみると、其処には焦った館長と、よく見たような顔がいた。
「ああみょうじ、また娘さんが例の男娼と逢いたいそうだがね。折角だし今回は前払いしといてくれないか。」
「おや。懲りないねお前は。そんなに惚れてしまったか。全く仕様がない奴だ。ホラお母さんと一緒に帰ろうね。」
「どうしてあんたが此処に居るの。」
「何って先日の詫びを入れに来たのさ。そしたら何んだか、また詫びの予感がするね。」
「アタシが何をしようと、勝手だわ。放っておいてよ。」
「わあおっかない、おっかない。そう言われちゃ堪らないね。どうぞ、どうぞ。お好きになさってください。でも今日はきちんと金を持ってきたんだろうね。真逆旦那さんの遺産は全て使い込んじまったかい。」
「どうしてアタシが払うの。あんたが産んだのだから、あんたがどうにかするのが筋でしょう。」
 噛みつかれて、みょうじは大袈裟に手を上げた。そうしてその手で財布を掴むと、中から成るだけの札束を取り出して館長に手渡した。
「全く仕方ない子だなあ。」
「やあ太っ腹だね。まいどあり。これなら何日分となるね。」
「悪いがわたしは暫く此処に来られないよ。だからこれは出来る限り取っといてくれ。これ以上の過剰分は、わたしには相談しないでくれよ。」
「わかったよ。ところで、その。」
「一件落着だ。まずは水、それから粥だね。」
「善かった。」
 みょうじは館長のそういうところを好ましく感じていた。
 みょうじは外へ出ると、光り出した星々の隙間を縫って視線を巡らした。もう寒い。昏い冬が今になだれ込んで来るだろう。
 星すらしんと冷たくなる夜を、みょうじは静かに歩いていった。