学生の頃、みょうじは毎日祈りを捧げていた。彩色硝子に映し出された光の影へ。みょうじはとても敬虔だった。良質な花であったのだ。
みょうじを呼ぶ電話は鳴り止まなかった。使用人はみょうじを見つめたが、みょうじはけして取次ごうとはしなかった。
電話の相手は館長であった。しきりに金の催促をしている。
「わたしは過剰分は支払わないと言った筈だがなあ。まあ大方、欲をかいたんだろうね。」
館長はみょうじならば過剰した分だけ素直に払うと思っていたのだ。だから喜んで娘に好き勝手させてしまった。結局、見せられた金に飛びついたのは桔梗でなく館長のほうだった。
しかし困ったな――とみょうじは思った。これでは桔梗にロザリオを届けるのは難しくなった。澁澤から郵送されてきた正教会のロザリオを指でジャラジャラやりながら、では此れを又郵送してしまうかと考えた。だが受け取るのは館長である。おそらく桔梗の元へはゆかないだろう。差出人不明にしてもいいが、矢張り確実ではない。考えて、やめた。みょうじの頭はズキズキとした。申し訳ないことだが、でもはじめからこうするような気がしていた。きっと自分は後ろめたさに動かされてロザリオを用意して、それだけだろうと。面倒臭さによって届けることまではしないだろうとみょうじは思っていた。そうなる気はしていたのだ。
「おい識阿、一寸此れ捨てといてくれないか。」
みょうじは使用人を呼びつけると一刻も早く其れから手を離したいと言わんばかりにロザリオを投げて寄越した。
「構いませんが、罰当たりですよ。」
「じゃ君取っといたら。」
「私には重過ぎる代物です。」
「そんなに重かったかな。鉄で出来ているからかな。」
「冗談は止してください。」
識阿はまたみょうじにロザリオを戻した。みょうじは掌をぴんと伸ばしたまま受け取ろうとはしなかったが、少々強引に手首を捻られ上に置かれてしまっては仕様のないことだった。
「やあうちの使用人は恐ろしいな。」
「捨てる覚悟が未だ固まって居られないのでしたら、手元に残しておくのが宜しいかと。」
「それもそうだが、何んだか呪われてる気分だ。」
澁澤が仕入れたものだから大層凝ったものであった。とても量産されているものとは思えぬ精巧な造りで、今にも息をしだしそうな気さえした。
「なあ君ところで今日の仕事はお終いか?」
「ええ最近は何方かが矢鱈仕事熱心なお陰で私の雑務も少ないので。」
「手厳しいなあ。そんじゃこの後一杯どうだ。」
「お互い下戸でしょう。」
「じゃ散歩。」
「何んです寂しいのですか。」
「そうかもね。」
「なら食事位は構いませんよ。一滴も無し、一銭も無しなら。」
「決まりだな。好きな物食べると善い。」
識阿は数年前からみょうじの家に雇われた若い男である。みょうじが道端で拾ってきた。主にみょうじの秘書を務めるが、やけに礼儀正しい割にみょうじには辛辣に物を言うのだ。慣れというやつか。しかしみょうじは其処が気に入っていた。恩が嫌いなのだ。
何んてことない定食屋に入ると二人は上着をばらばらに脱いで置いた。適当に袖を捲る。
「君何食う。」
「もう決めました。」
「早いな。」
「こういうのは一目で決めた方が悩まなくて善いんですよ。」
「君結構優柔不断だものなあ。善しわたしもそれに肖るとするかな。」
酒臭い喧騒の中で二人は冷静でいた。お互いの声はよく聴こえる程度の外野であったし、お互いにお互いの声は拾い易いように創られていた。
ゆっくりと腹の中を充たしていった。どれも美味かったが、味噌汁だけは何んだかぬるい気がした。みょうじが嫌物を識阿の皿に避けると、識阿も同様にした。みょうじには嫌物が多かったためみょうじの方が多く避けると、識阿は其れだけ自分の物からみょうじが食える物を差出してやった。みょうじは一寸ご機嫌になった。これはみょうじには余り良くないことであった。
「識阿君一目惚れというものを信じるかい。」
「先程の話ですか。」
「イイヤ注文じゃないんだ。恋だよ。愛みたいな話だ。」
皿に残った胡麻を箸の先で潰して遊びながら、みょうじはヘラヘラ言葉を加えていった。
「一目見ただけで、其奴の事しか考えられなくなるって病名さ。」
「私は浪漫主義者では無いので、其の行く末迄は肯定出来ませんがね。存在自体は在っても善いのではとは思いますね。」
「そうかい。君した事無いのか。」
「した事はありませんが、された事はあると信じて居ます。」
「オヤ! 一体誰に。」
「貴女ですね。」
「アハハ違いないね。そうだよ確かにわたしは似た者同士と見抜いて君を拾ったのだから、どうしたものかな、確かに一目惚れだな。」
「私は私自身の恩と愛慕の混同を阿識っています。そして貴女と私はどうしても相容れないことも。だから私達は一番気の合う者同士なのです。」
「だから気に入っているんだよ。食後に甘味も付けるかい。」
「頂きます。」
事は淡々と為されていった。帰り道、みょうじは識阿の見ている中でロザリオを川へ投げ捨てた。
「すっかり神に見放されたな。地獄は近いね。」
「貴女が宜しいなら、其れで宜しいでしょう。何処までもお供します。」
「君は付いて来るのか。」
「はい。」
「わたしはもう良質な花では無いんだよ。」
「悪質でも上質を兼ねるかも。」
「君わたしが此処でわたしを待てと言ったら、待つのか。」
「待ちますね。」
「来なくても待つか。」
「来ると信じているので待ちます。来ることは重要では無いのです。」
「では捨てると言ったら。」
「追い縋ります。」
「そうか。」
「はい。」
「わたしはロザリオを捨てたよ。」
「其のように、捨てなさっては如何ですか。」
みょうじは笑った。
「そうしようネ。」
