∴ しろねこ
しろちゃんと心のなかで呼んでたあの子はたつひこというおなまえらしい。いつも器用に木を伝って、窓際まで来てくれる。来て、わたしにおそとのいろんなことを教えてくれる。
にゃーご。にゃーご。
ねこの街の西側には猫の商店街がある。通貨はサカナのホネをきれいに洗ったもので、最近だと自分のツメを切ってサカナのホネに見せかけるサギがはやっているらしい。でも、そういう悪いヤツはツメを見ればわかるんだって。
しっぽゆらゆら。
「わたしも、行ってみたい」
おそとに出て、じゆうに町を散歩する。食べたくなったら食べたいものを食べて、おともだちとおはなしして、それはきっとたのしいんだろう。
たつひこが見つけてくれなかったら、わたしは未だ、ここが何処かもわからない。
たつひこは白いからだをお行儀よくのばして、なんでもないような顔でわたしに言葉をかけてくれる。
「来れば良いさ。案内してあげるよ」
それが、うれしい。
うれしいけど。
「でも」
りん。りん。
「わたしかいねこだもん」
首の鈴を鳴らしてみせると、たつひこは首をかしげた。
「そんなもの。取ってしまえば良いだろう」
「できないよ」
「どうしてかい。だって君は、」
「おともだちが出来たんですね」
おしりと腰の間を撫でられて、腰がきゅきゅっと上に持ち上がる。
「ア」
体が勝手に反応して、ぴくぴくと揺れてしまう。ごしゅじんさまの指はわたしのおしりを撫でて、
「でも、窓には近づかないって約束したでしょう。野良猫に孕まされてはいけませんからね。ほら、おいでなさい」
「ァ、ア、ごしゅじんさま……」
「君は飼い主から随分な寵愛を受けているんだね」
次の日にたつひこと会ったとき、そんなふうに言われて拗ねてしまった。
「見てたの」
「カーテンが開いていたからね。見物させてもらったよ」
アクシュミ。イジワル。
「とすると、君は子どもができるのか」
「子どもができるの?」
「そうだよ。ああいうことをすると、生き物はみな子どもができるんだ。知らなかった?」
「……しらなかった」
「ふうん。君はほんとうに何も知らないね」
しろいしっぽがゆらゆらする。
「さいきんいっぱいするの」
「初めてじゃないんだね。じゃあ、もうとっくのとうに子どもができているのかもね」
昨日みたいなことはきらいじゃない。気持ちいいから、できるときはいつでもしたくなる。でも、イヤな気もする。なにか、自分のなかからどうしようもなく自分じゃないものが、自分として出てきちゃう。それがなんだか、イヤだ。
じゃあ、それが子どもってことなのかな。
「子どもっていやなものなのかな」
「場合によるね。母親にはなりたくない?」
.......それは。
「なってみたいかも。あかちゃんをそだてる」
わたしの腕のなかで、わたしのちっちゃいのがうごうご虫みたいにうごく。それで目が合ったりして、あかちゃんはへんな声を出したりする。それでわたしが遊んで、たのしむ。好きにうごかして、好きなものを着せる。ごしゅじんさまみたいなことをする。
じゃあ、わたしはごしゅじんさまのあかちゃんだったりするのかな。
「なら、良いんじゃないか」
赤い眼がわたしを見る。でも目は合わない。わたしのからだ、わたしのどこか奥をおだやかに、じっと見ている。
「今より不自由にはなると思うがね」
言われて、びっくりした。
「今より?」
「そうだよ。今よりよっぽどさ」
あかちゃんができると、おなかがだんだん重くなっていくんだって。
たつひこが教えてくれた。
それはおなかのなかにあかちゃんができて、大きくなるから。それに、きゅうくつになって、おなかの中のものが口からも出てきたりするらしい。
「そんなの、やだ.......」
「母親になるためには必要なことだよ」
「でも、でも、今よりもっとふじゆうなんて、いやだよ」
おそとに出られなくて、あそびも、おまたをいじるしかゆるしてもらえなくて、おようふくも自分で着たり脱いだりしちゃいけない。おトイレも見せなくちゃいけないし、ねむたくても、ごしゅじんさまがおちんちんをわたしのおまたに擦りたいときは、ほっぺたやおしりを叩かれて、無理やり起こされちゃう。
今でもじゆうになりたいのに、もっとイヤになるの?
おなかがいつ膨らむのか、不安になってしまって、とっさにおなかを抱えた。そんなわたしを、たつひこは呆れもせず見据える。
「これ以上の不自由はイヤかい」
「ウン」
「けれど、母親にはなりたいんだね」
「ウン.......」
たつひこのしっぽが、くにゃりと曲がり揺れる。
「私に、良い考えがあるよ」
「たつひこ、まって、まってよお」
「登れないのかい」
「むりだよ、下のみちを通っていこうよ」
「君は本当に仕方ないね」
ぜえぜえ、ごしゅじんさまとあかちゃんをつくるときみたいに苦しい。こんなに速くうごくのは初めてで、胸がどきどきする。
これ以上の不自由がいやなら、今までの不自由をなくしてしまえばいい。
それがたつひこのかんがえ。外で自由に暮らせば、不自由はおなかだけになるから。
高い高い塀のうえからすとんと降りてきたしろいこねこが、すっかり走るのが遅くなったわたしの周りをくるんと回る。
「休んでいたら、見つかってしまうかもしれないよ。休むなら、ねこの街に行ってからでないと」
「でも、でも、つかれたよ」
でも、いそがないと自由じゃなくなっちゃう。
疲れて、でも焦って、何がなんだかわからなくなったわたしは足がもつれて転んでしまう。肌が叩かれたみたいに痛くなって、じんわり涙がにじんだ。
つらい。
こんなにおそとはつらい。
「かえりたい」
ぽつんと呟く。
しろねこはわたしの声を聞くと、ちょっとだけ考えるようにして黙った。それから、ふうん、と言って、わたしの頬をなめる。
「そうだったんだね」
さりさりの舌が離れると、たつひこはくるりと振り返る。そうして今まで来た道を、てこてこ引き返していく。
「無理を言って連れてきて、すまなかったね」
「えっ、.......え?」
「さあおいで。おうちまで送ってあげよう」
「え、.......あ、.......」
.......、..............何も考えられなくて、.......ただたつひこのうしろをついていく。しらないひとが、わたしの足を見てひそひそしあって、わたしはひとりでいるような気がした。
打った肌が痛い。こんな傷を見たら、ごしゅじんさまはきっとわたしをあやしてくれる。前に紙で指を切ったとき、傷をたくさん舐められて、しばらく離してくれなかった。
痛いから、ごしゅじんさまを思い出す。痛いとき、ごしゅじんさまはすごく甘い声でわたしをなぐさめてくれる。「おケガしちゃったんですね」「かわいそうに」「よしよし、ぼくがいますからね」「いたいのは、もうおしまいに しましょうね」.......それで、おへやから無くなっちゃったものがたくさんある。
わたし、ほんを読むのが好きだったのに。
.......でもそれがごしゅじんさまのやさしさだから。大丈夫、だいじょうぶ、きっとゆるしてくれる、おかえりって、だきしめてくれる.......。
はじめて見るような、大きなお屋敷に来た。たつひこがここに来たから、これがきっとわたしが今まで住んでいた建物なんだろう。
わたし、自分が住んでるところの外見さえ、見たことがなかった。
.......たつひこは屋敷の門のところまでわたしが来るのを見届けると、じゃあねと言ってどこかへ行こうとする。
ビックリした。
「どこいくの?」
「どこって、帰るんだよ。君を送り届けたからね」
「え.......」
「きみは、ここからは、ひとりで行かなくちゃ」
たつひこが離れていく。
しろいせなかが遠のいていくのを見ていると、急にドッと心臓が重くなった。
振り向いて、屋敷を見る。わたしの住むばしょ。ここに居れば今までといっしょで、つらいこともない。
けど、でも、走ったとき、はじめは楽しかった。慣れることができるかもしれない。ひそひそばなしの人たちも、また見れるかもしれない。
じゆうにできる? そとでは、どうやって生きていけばいいの?
屋敷をぼうっと眺める。ひとつの窓が大きく音を立てて開いた。
遠くてよく見えないけど、それでもひと目でわかった。
ごしゅじんさま。
わたしを見ている、と思う。見つめて、すこしだけ振り返って、またわたしを見た。ごしゅじんさまの後ろで、誰かがバタバタと蠢いているのが見える。
たぶん、誰かがこっちに来る。
わたしはしろいせなかを追った。しろねこは首をくるんとしてわたしを見つけると、紅い目をぱちくりさせる。
「どうしたんだい。なくしもの?」
「つれてって、おねがい、つれてって」
こんどは泣き言いわないから。どんなにくるしくても走るから、おねがい。おねがい!
一心不乱にさけびながら走りつづけると、たつひこはわたしを追い越して身軽に駆けだした。
「こっちだ!」
大きい声を出して鼓舞してくれる。よろよろのからだだけど、しろいたつひこのまぶしさをひたすらに追い続けた。足のうらはもう感覚がなくて、熱いのに、へんにつめたい。ただ夢中で、しろいろを追い続ける。.......
はしって、はしって、たつひこのもうすぐだよ、の声が聞こえた頃、わたしの息は限界になっていた。
「着いたよ」
今度こそ足が動かなくなって、べちゃ、と地面に倒れる。
でもなんだか、さっきより痛くない。ふかふかしているものの上に倒れたような。
顔をあげると、口のなかにふわふわが入っていてげほげほとしてしまう。顔をはたいて、たつひこをさがす。
「たつひこ、たつひこ、どうなってるの」
前が見えなくてパニックになっているわたしをよそに、たつひこはいつもみたいに落ち着いておはなしする。
「ああそこはねこのけ捨て山だよ。全身毛まみれだね。まったく、あとで毛づくろいをしなくちゃね」
「ねこのけすてやま? .......」
本でも読んだことない名前を聞いて、きょとんとする。それから、もしかしてと思って、目をこすってやっと辺りを見渡す。
.......ぞろぞろ。ふわふわぞろぞろ。しっぽふりふり、おはなぴくぴく。おさかながやすいよ、いまなら120ホネ。ねこのおまわりさん、ネコパンチ取り締まりごくろうさまです。.......
..............聞いたことの無い、知らない数々に目も心も奪われてぼうぜんとする。ねこがたくさん。
「わあ、ずいぶん大きいね。森のねこ?」
「えっ、えっと」
「いいやこの子は、砂漠のねこでね。熱いところで暮らしていたから、ほら、毛がないだろう」
「砂漠ねこ! はじめて見たよ。私は月のねこ。よろしくね」
知らないねこに鼻をちゅんとされて、ビックリしてしまう。それでも、.......それでも、ビックリより、ドキドキだ。うれしいほうのドキドキがする。
「たつひこ、ここ」
「うん」
たつひこを見つめて、言葉を待つ。たつひこは相変わらず、しずかな顔をしてる。
しっぽ、ゆら。
「ここがねこの街だよ」