∴ ねこ


 たつひこがおしごと中の時のこと。赤ちゃんと遊んでいると、ごめんくださいと声がした。
 赤ちゃんを揺りかごに寝かせて、ほら穴の入り口に向かう。そこには、頭をケガしたらしいねこがいた。
「こんにちは。何かご用ですか?」
「近所に越してきた者です。ご挨拶をと思いまして」
 わあと思って、ねこちゃんに駆け寄る。新しいご近所さん。
 さらさらの長髪がきれいな、とっても上品そうなねこちゃん。頭のおケガはどうしちゃったんだろう。
「かわいい、かわいい。撫でてもいいですか」
「どうぞ」
 包帯を乱さないよう、慎重に撫でる。たつひこやおさむちゃんみたいに、喉を鳴らしたりはしなかった。
「乳首の色が濃いですね。赤ちゃんがいらっしゃるのですか」
「え! よくわかりましたね。すごい。そうですよ」
「拝見してもよろしいですか」
「もちろん良いですよ」
 ねこちゃんをほら穴の奥まで通して、揺りかごのところへ案内する。
 赤ちゃんはわたしを見て、うれしそうにふくふくの足をばたつかせる。ほっぺをつんとつつくと、声を出して笑った。
「……なんと美しい。ほんとうによく似ている」
「ほんとう? うれしいな」
「触れてもよろしいですか」
 よっぽど赤ちゃんが気になるらしい。ねこちゃんを抱きあげて、揺りかごの中に入れてあげた。
 ねこちゃんは赤ちゃんに慎重に寄ると、何故だかていねいに頭を下げてからゆっくりと手に触れた。
 とてもお行儀のいいねこちゃん。
 でも赤ちゃんは知らないねこちゃんに触れられて、びっくりしちゃったみたい。みゃーみゃー泣きだしてしまったから、ねこちゃんにごめんねと言ってから胸に抱く。
「ああ、ああ……申し訳ございません」
「ごめんね。ねこちゃんもびっくりしたでしょう」
「私のことなど。お子様はご無事ですか」
「大丈夫だよ。女の子だからかな、ちょっと泣き虫な子なの。よしよし……」
「お嬢様なのですね」
 にっこり、笑う。
「そうだ、お近づきのしるしに何かお送りしましょう。お嬢様は、何がお好きですか」
「そんな。良いですよ」
「いえいえ、泣かせてしまいましたし、私の罪悪のためにも是非受け取ってください」
 そこまで言われてしまったら、断るのも申し訳なくなってしまう。
「じゃあ……この子は音の出るおもちゃが好きなの」
「ああ……なんと素晴らしい! お嬢様も、音楽がお好きなのですね」
 ねこちゃんはとてもうれしそうに声を出した。しっぽがぐりんぐりんと動いている。
 ねこちゃんも音楽が好きみたい。何かもらったら、ちゃんとお礼をしなくちゃ。

 そのあと、ねこちゃんは赤ちゃんについてたくさんのことを質問して帰っていった。よっぽど珍しいみたい。いつでも来ていいよと言ってあげた。
 帰ってきたたつひこに新しいご近所さんのことを伝えると、たつひこは首をかしげて言った。
「このあたりに、新しく猫が住めるところなんてあったかな」
「確かにこのあたりはちょっと離れてるし、今までわたしたちとおさむちゃんしかいなかったもんね」
「茶色ねこにも聞いてみよう。きっと彼のところにも挨拶しているはずだからね……このあたりのことをあまり知らない猫かもしれない」
 たつひこはやさしいから、新しいねこちゃんのことも気にかけてくれるらしい。わたしに向けられたやさしさではないけれど、それでもうれしくなって、耳のあたりにちゅうをした。
「ん、なんだい……」
「えへ……したくなったから、しただけ」
「……もう。しかたないね」



「ご近所さん? 来ていないね」
 お昼寝中に遊びに来たおさむちゃんがそう言うと、たつひこの声色がちょっと変わった。
 わたしは寝たフリをして、ふたりの会話にコッソリ聞き耳を立てる。
「来ていない?」
「うん。包帯ねこは見ていないね。だいいち、包帯は人間の文化じゃなかったっけ」
「そうか。なら元飼い猫かな……ますます心配だね」
 わたしたちとおさむちゃんの家は結構近いのに、挨拶は来なかったみたい。ほんとうにこのあたりのことはよく知らなくて、わたしたちの家はたまたま見つけたから挨拶に来たらしい。
「ほんとうに心配だね。心配というのは、私たちもだよ。ほら、最近は商店街も騒がしいじゃないか」
「ああ……最近この街は様子がおかしいね。しばらくは商店街のほうには降りずに居ようと思うんだが」
「賛成。なまえの赤ちゃんもまだちいさいからね……しばらくは、私か白猫のどちらかが赤ちゃんとなまえの傍に居た方が良い」
「様子がおかしいって、なに?」
「わっ」
 会話の内容にびっくりして、つい聞いてしまう。ふたりはわたしが起きていたのにびっくりして、ぴょんと跳ねた。
「起きていたのか」
「うん……。ごめんね」
「謝ることではないさ」
 たつひこがしっぽで撫でてくれて、それで起き上がる。
 おさむちゃんにもおはようの挨拶をしたら、話の続きが始まった。
「最近、ネズミ肉の値段がすごく下がっていてね。何故って、このところ獲れるネズミの量が異様に多いんだ」
「私や白猫はネズミ獲りを生業にしてはいないから、たいした影響はないんだけど……私たち猫は、あまりネズミを食べ過ぎると理性を失って言葉も忘れてしまうんだよ」
「でも、そんなに食べなければいいんでしょ?」
「そうだけどね……でも、みんな安いものに惹かれちゃうから。それに大量発生して、ネズミ獲りじゃない猫も自分で狩りだす始末さ。おかげでちゃんとしたネズミ獲りは生活が成り立たなくなるし、気性の荒いヤツらは増えるし、街のほうはちょっとした無法地帯だよ」
 そんなことになっていたなんて、知らなかった。
 だからおさむちゃんは、赤ちゃんの傍にたつひこかおさむちゃんが居た方が良いって言ってくれたんだ。
「隠していて、ごめんね。君は出産を終えたばかりだし、あまり心配させたくなかったんだ」
 たつひこがしゅんとしてわたしの手を舐める。わたしはたつひこの背を撫でて、それからもう片方の手でおさむちゃんも撫でる。
「ううん。ふたりともありがとう。気をつかってくれたんだよね」
 ふたりにあんまり面倒はかけたくない。けれど、わたしひとりじゃどうしたらいいのか分からない。ここはふたりに甘えることにした。
「でも、すごいね。ふたりはほかのねこちゃんみたいに、ネズミを食べたくならないの?」
「そりゃあ食べたくはなるさ。なるけど、なんだろ。赤ちゃんのこと思い出すと、不思議とガマンできるんだよね。しっかりしなきゃって。ねえ白猫?」
「茶色ねこの言う通りだね。なまえと赤ちゃんのことを考えたら、食べている場合ではないから」
「……ガマンさせちゃってる? ちょっとなら、食べても……」
「その分君が甘やかしてくれたら良いさ」

 その日はふたりを随分甘やかしてからお昼寝を再開した。おさむちゃんなんか、帰りたくない帰りたくないって駄々をこねちゃって、結局その日は見張りの意味も含めてわたしたちの家に滞在することになって、それからはわたしたちの家にずっと居るようになった。だから、たつひことの交尾もいつも見られて、ちょっとだけ恥ずかしい。おさむちゃんのめんどうも、舌を使って、たつひこが嫌がらない程度にみてあげる。
 そういう気持ちいい日々が、しばらく続いた。




 ネズミ食が大流行して、いよいよ猫の街にいるのは危険だろうということになった。
「茶色ねこ、どうだった」
「殆どの猫が野生に戻ってしまっていたよ。このあたりでネズミも見た。……此処ももう危ないかもね」
 さんにんで話し合って、少なくとも赤ちゃんが猫より大きくなるまでは、この猫の街からお引っ越しをしようということになった。
「とはいえ、人の街も危ないからね。人の街を抜けて、ここからもっと東のほうの、もうひとつの猫の街に行こう」
 人の街。
 聞くだけで、なんだか背すじがぞっとする。
 ここから逃げるためには、逃げてきた場所にもういちど行かなければならない。
 思わず赤ちゃんをぎゅっと抱きしめると、赤ちゃんはふくふく笑った。わたしの頬にぺちぺちと触れてくる。
 ……怖がってちゃだめだ。この子のためにも、頑張らなきゃ。
「……うん。さんにんでがんばろう。そうだ、わたし、服を着なきゃ」
「いちおう、君が着てきた服は綺麗にして隠しておいてある。サイズはすこし変わったかもしれないけど、着れないことはないはずだよ」
「ありがとう」
 わたしが無理に笑うと、たつひこはそれに気づいたみたいで、おひざの上にぴょんと乗ってきた。
「大丈夫。深夜、人の少ない時間に行こう。私たちがいるから、心配ないよ」







 深夜は野生の猫たちも行動を始めてしまうから、お昼のうちに猫の街の入口の近くまで移動して、深夜になれば猫の街とさよならをした。
 久しぶりの人の街はなんだかごちゃごちゃしていて、目がなかなか慣れない。今はただ、しろいろとちゃいろを目で追っていた。
 二足歩行も、なんだかおぼつかない。これで合っていたっけ。
「走らないでゆっくり行こうね。この調子なら、疲れても休憩ができるよ」
「そうそう。追われてるわけじゃないんだし、マイペースマイペース。いやあそれにしても、人の街もなかなか面白いねえ……」
 道中、ふたりが何度も優しい声をかけてくれた。わたしはそれがうれしくて、そのおかげで歩き続けることができていた。

 それを覚えている。

 二足歩行も、おぼつかなかった。わたし、歩けていたっけ。やっぱり、四足歩行がいい。
「運がいいね。人が全然いないや」
「ああ。だがその代わり、とても静かだ。物音はあまり立てないようにしたほうが良い」
 ふたりの声が、なんだか遠くに聞こえる。すーすーする。わたし、服を着ていたはずなのに。
 さむい? でもあつい……。

 ばん!
 ほっぺが、鋭くつめたくあつくなる。

 転んだ? でも、痛いのは頬だけだ。でも痛い。転んだなら、赤ちゃんは? もぞもぞ……藻掻く。どこ……。

 目を開く。
 今まで、目を閉じていた?
「目が覚めましたか」

 …………。なんだか。

 なんだか、なんだか。なんだか、なんだか、なんだか、とても吐きたい予感がする。
 喉の奥が、そのさらに奥まで、ぐちゃぐちゃに混ざり込むような。
 重い下半身を無視して、よろよろと上体を起こした。そうしたら急に顔を掴まれて、驚いて目を見開く。
「…………。ぁ、え?」
 見覚えのある紫が、視界いっぱいに広がる。
 無表情の人間が、わたしの上に跨ってじっと見つめてくる。
 このひとが誰か、忘れるわけがない。
 だって、このひとしか、知らなかった。
「…………ぼく、ほんとうに後悔しています。きっと、躾が足りなかった。貴女はとても可愛いので、つい手加減をしてしまっていたんですね」
 貴女との、ながい、ながい幸福の日々を、自分の甘さで逃してしまった。
 うわ言みたいに呟くと、ご主人様はわたしを押し倒して、隅々まで触れようと手をまさぐり始める。
「あっえ、えっ? えっ……」
「ああ、言いたいことが、山ほどある! 怒りは最もですが、無事で良かったと貴女を慰めたい気もします。ああ、ああなんですかこの身体は。随分だらしない形になって。誰にこうされたのですか!」
「イヤっ!」
 身体を鷲掴みにされて、痛くてじたばたする。それでもご主人様は退いてくれなくて、わたしはされるがままに痛みを覚えた。
「さわんないで! イヤ!」
「ああ! ああ!? なんて口を叩くようになったのでしょう、この子は、私の可愛い可愛いこの子は!!」
 わたしはたつひこのお嫁さんなのに、ご主人様は好き勝手わたしを弄る。手のひらで思いっきり叩いて、掴んで、キスをして引っ張って押して。わたしに対してなんでもして、まるで何をしたいか分からないふうに。
「ああ、帰ってきた、ああ帰ってきた! ああぼくがどれだけ、あーっ……っ、っ、心配で、あ、くるしかっっ たか、あなたにわかりますかわかってください、ねえ、わかれ?! どうして、どうしてああ、可愛い! ここに居る!」
「イヤッッ……が!」
「ぼくを拒絶するな ァ゛!!」
 口に手を丸ごと突っ込まれて何も言えなくなる。くるしくて、きゅうくつで、わたしとご主人様との何もかもが、せまい。
 こんなに取り乱したご主人様、見たことない。いつも落ち着いていて、上から見下ろして、こわいくらいキレイで……。声を荒らげることなんて決してしなかったのに。
 そんなご主人様がこんなに取り乱すほど、さみしかったの?
「ご、しゅじんさま、さみしかった?」
 身体を摩擦されながら、わたしがやっと話しかけると、ご主人様はわたしを凝視して止まる。
 しばらく沈黙して、……口をゆっくり開く。
「……うん……」
「……ごめんなさい」
「さみしかった」
「ごめんなさい、でも、わたし」
「もういなくならないで、ぼくとずっと一緒にいて」
「それは、イヤ。ここに来るのはいいけど、ずっとはイヤ」
「ぼくたちの子どもが生まれるの、見たかったのに、ぼくが臍の緒を切りたかったのに」
「ごめんなさい。ねこたちと暮らしたいの」
「ぼくたちの赤ちゃんをお世話する可愛いなまえを、何日もの夜を使って愛したかったのに、おなかが膨らんでいくなまえを、見たかったのに」
「ごめんなさい、でもね」
「あの猫たちなら殺しましたよ」




 え?
 じゅうでうちころしました。
 え?
 いまごろはみちばたにしたいがころがって。

「だからね、あなたはもう、ここにいるしかないんですよ」
「えっ……え?」
「つぎはあかちゃんをころします」
 ぼくの可愛いなまえには、どうしたらいいか、わかりますよね
「まずは猫背を治すところから。見たところ四足歩行に慣れましたね。お肉もすこし落としましょう。お胸はきっと戻りませんね。良いでしょう。大きいお胸も可愛がってあげます。髪も綺麗にして。お股を開いて。おやヴァギナは使っていない。けれど摩擦はしましたか。アナルも締まったままですね。こちらもぼくがしてしまいましょう。さあ、キスを」