∴ 猫
「ぼくがパパですよ。ふふ。いい子だから泣き止みましょうね」
「ねえ、ねえ、ご主人様、わたしがあやすから、渡してください、あかちゃん、」
「いいえ、いいえ、ぼくはね、育児のできる父親になりたいのです。貴女のためですよ」
「でも、ずっと泣いて」
「…………ぼくでは泣き止まないという判断ですか?」
「えっあ、いっいや、」
「誰のせいでこうなったんです? 誰がぼくから離れたせいで?」
「あっごっごめんなさぇ、う」
「ああぼくかなしくなってしまいました、ねえ、またさみしい。……さあ、脱いでください」
「でも、でも、あかちゃん、泣いて、……ア……」
………………、……、………………。
とうとう赤ちゃんを抱かせてもらえなくなった。いつもご主人様が抱いて、生きている姿をわたしに見せに来る。
生きているから、死ぬ。生きているから殺せる。そうやって見せてくる。
お世話はどうしているの。聞いたら、新しく執事をふたり雇って任せているらしい。それならわたしがお世話するのにって言ったら、貴女はぼくをお世話してくださいって、毎日刺される。毎日、毎日毎日、わたしのからだの中を入っては抜けていく。肌は摩擦、舌は絡んで、……ご主人様は手を繋ぐのがだいすき。と。おぼえました。だからきもちいいの時は手を繋いで交ざります。いい子にします。お股を開きます。口を開きます。ご主人様を抱きしめて赤ちゃんみたいにあやします。
「ふふ……ぼく、なまえとこうして夫婦になることができて、本当に幸せですが、なまえから生まれたかった気もします……ああ、ねえ、ねえ……臍の緒がなくても、ぼくと繋がってくれる?」
「ウン、ウン……ァン……」
「ぁあ……うれしい……そんなにぼくがすき?」
「すき」
「どろどろだね。ねえ、もっと。あなたのすべてと、すべてのあなたがほしい。ぼくにとっての、すべてになって……」
ご主人様のいないときはただの置き物。ご主人様がいるときはただの穴。ごはんをたべる。
ずっと、ねこのまちにいたかった。ネズミが憎い。いまごろ、あのまちはどうなっているんだろう。
かなしい。たつひこが、あかちゃんをあやすために歌ってくれていた歌を口ずさむ。月がまあるくて、指がうっすら光に照らされる夜のような、そんな、抱きしめてほしいような歌声を思い出す。
思わず、指を握る。赤ん坊みたいに。
死んでしまったのだという。ねこは死んだらどこへ行くのだろう。死んだあとの世界も、ねこの街はあるのかな。
そこに行きたいと、思う。こんこん。
「奥様、しつれいいたしますよ」
わたしのごはんの時間らしい。扉のむこうで声がした。
扉はいつも通り勝手に開かれて、すべてはわたしの意志に関係なく終わる。だから何もしなくていい。ただテーブルにごはんが置かれて、それでおしまい。執事のひとは、わたしと何も喋ってくれないから。
ぼんやり寝転んで、考える以外何もない日々。何かあるのがご主人様との時間しかなくて、どうしてもその時間が、変に重要になってしまう。
きっと、そういう作戦なんだと思う。なんだかいらいらが頭に溜まって、何も吐き出せないのに熱で飛び散りそうだ。もう何もかもきらい。死んじゃおう。そうすれば。
みゃあ。
たつひこに、会えるかもしれない。……
……みゃあ?
ベッドに埋めていた顔を上げる。
「あかちゃん」
どうして? すぐそこで、あかちゃんがみゃあみゃあ笑っている。
泣きもせず、うれしそう。
咄嗟に飛び起きて、赤ちゃんに跳び寄る。ご主人様にはやっちゃだめって、直されたねこの動作。
執事さんの腕の中をしげしげと見る。
間違いない。わたしのあかちゃん。
「どうして?」
あかちゃん、わたしに会わせちゃだめって言いつけられているはずなのに。
執事さんの顔を見る。
なんだか、とてもやさしくわらっていた。
「この子、私たちのことがわかるみたい。初めて抱いた時も、泣かなかったんだよ」
赤ちゃんを抱いている執事さんのうしろから、ひょこっともうひとりの執事さんが顔を出した。
こっちは、うれしそうに笑っている。
「あ、あかちゃん」
抱いていい? ですか?
おそるおそる訊くと、白髪の執事さんはおへんじの代わりにわたしに赤ちゃんを差し出した。
赤ちゃんに触れる。ほんとうに、ひさしぶりに。
ふいに大粒の涙が溢れて止まらなくなった。かなしくなんかない、うれしいのに、わけもわからない、考えられないくらいにばたばたとこぼれ落ちる。
「ど、どう、して?」
「なみだのこと? 私たちのこと?」
「えっ、えっあ、えっ、どっ、ちも」
「うーん。喋り方、随分変わっちゃったね。どんな仕打ちを受けてきたか、手にとるように分かっちゃって腹立たしいな」
……執事さんの声になんだか聞き覚えがあって、でも、ちがうと思う。だって、執事さんはひとであって。
今まで口を開かなかった執事さんが、わたしの頬をやさしく撫でる。それからゆっくり、確かめさせるような時間をおいてから、ぞりぞりほっぺたを舐めてきた。
「わっ」
いきなりされたのに、不思議とイヤじゃない。
でもビックリはしたから、執事さんを凝視する。瞳が合って、にこ、明確に微笑まれた。
「わかったかな」
その声にだって、聞き覚えはあった。
胸にへんな期待が広がる。
そんなわけはない。だって……。
「ねえやっぱり突然すぎたんじゃない? なまえ、困ってるよ」
「でも、気づき始めているよ」
ひそひそ話し合ったふたりが、ちょっと考えてから、まあいいかと声をそろえる。
「正直に言おう」
「そうだね」
じりじり、まるで猫みたいに慎重に近づいてきた。わたしは後退して、ベッドのはしに座り込む。
ふたりがしゃがんで、わたしの膝に両手、その上に顎を置いた。
みゃう。
そして、鳴いた。
「…………。たつひこ?」
「そうだよ」
「おさむちゃん?」
「やっと気づいた!」
おさむちゃんはぱっと顔を明るくして、部屋の中をばたばたと走り回る。たつひこはわたしのおひざの上で、お行儀よく擦り寄って甘える。
「また会えた」
あかいろの瞳が、わたしを見つめる。顔を近づけて、瞳を覗き込んでくれる。
止まらないわたしの涙がたつひこの瞳に触れて、わたしたちの涙はひとつになる。
「あえた?」
「うん」
「わたし、たつひこに、あえた?」
「そうだよ」
「あえた」
「会いたかったよ」
わたしも。
わたしも、会いたかった。
会えてうれしい。そう伝えたいのに、頭が働かなくて、わからなくなってしまう。震えて、たつひこを見て、……たつひこが抱きしめてくれるまで、ずうっとおろおろしていた。
「きみは、私のことを抱きしめたいんじゃないかな」
そう言って、わたしがたつひこを抱きしめやすいように、たつひこから抱きしめてくれる。
ぽんぽん。肉球のない、ひらたい手のひら。
「あ、あ」
「うん」
「あ、あ、えっあ、あ、」
「うん、うん」
「……あい、たかった、わたしも」
「嬉しい」
「たつひこ」
「うん」
「たつひこ」
「うん」
たつひこ。
それから、みんなでみんなを抱きしめて、今までのことのおはなしをした。
「私たち、君のご主人様に撃ち殺されちゃったんだ」
「でも、出産のとき、私が噛みちぎった君の臍の緒を、とっておいたものを、ふたりで食べたんだ」
「私たちは、臍の緒を食べて人間になったよ。戻ってきたんだよ!」
だから私たちは、前よりももっと近しくなったんだよ。それを家族と言うべきなのか、ううんきっとちがう、わからないけど、もっと私たちになったよ。
「それで、この屋敷に執事として潜入したんだ。そうしたら運良くベビーシッターを任されてね。何せ、この子は私たち以外が相手だと泣いて仕方ないから」
「そう、頑張ったんだよ。でも、油断すると、ほらっ」
ぴこん。
おさむちゃんの頭の上から、ちゃいろい耳が飛び出て、びっくりする。
「わあ」
「こうやって、耳とかしっぽが出てしまうんだ。いやあ、神経使ったなあ」
「でも、曲がりなりにも私たちは人間になったから、君を連れ去ることができる。さあ行こう。赤ちゃんと一緒に、どこかの街で幸せに暮らそう」
「私たちは人間だから、人間の街でお家を探そうか。もちろん、ここから遠く、遠く、うんと遠くに離れた場所にね」
ここから逃げて、また一緒に暮らせる。
こんなにうれしいことはなかった。首を縦に振る。そうしたい。ずっと、そうしたかった。
持って行きたいものなんかここにはひとつもなくて、すぐによにんで逃げ出した。
ふたりはわたしなんかよりよっぽど二足歩行がじょうずで、赤ちゃんに歩くのを教えるとき、先生になるのはきっとふたりなんだろうと思った。
わたしがいなくて、さみしかったと言ったご主人様。それだけはすこし、ごめんなさいとも思った。
それでも、このふたりとの日々は何にも変えられない。ごめんなさい。おてがみに書いて置いておいた。ごめんなさい。さようなら。
きっと、ご主人様はわたしが字を書けることも知らなかっただろうから。きっとこのわたしを、好きじゃなくなってくれる。
二度も言うことを聞かない、それほど白痴でもなかったわたし。
ほんとうのさようなら。
さようなら。
「ネクタイが締まんない」
「袖のボタンできない」
「もう、甘えんぼさん。いいよ。ちょっとまっててね」
ふたりは人間になっても甘えんぼだった。猫の習性が抜けきってないのか、可愛がると喉がなっちゃうし、えっちのあとは必ず舐めてくるし。
朝の準備を手伝ってあげて、お見送りをしてあげる。行ってらっしゃい。やっぱり今日行きたくない。帰ってきたらすきなご飯作っててあげるから。じゃあ、がんばる。茶色ねこ、そろそろ行かないと。ぎゃあ。首根っこ掴まないでよ。
「たつひこ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ふたりを見送って、目覚めたらしい赤ちゃんのお世話をする。おはようの挨拶をして、ガラガラを鳴らして泣き止ませて、オムツを見て……。
「あれ?」
呟くと、赤ちゃんはきゃあと笑った。
まるでわたしにおへんじしたみたい。かわいい。赤ちゃんがわたしに一生懸命手を伸ばすから、オムツを替えて、ベビーベッドから抱きあげて、胸に寄せてあげる。
おなかがすいていたらしい。ひっしに胸あたりの服を取り除こうと引っ張るから、ベッドに座ってシャツのボタンを開ける。
「ちょっとだけ、まっててね」
あう。
今日はごきげんみたい。おへんじみたいでかわいい。頭を支えて、おっぱいをあげる。
今日もかわいいわたしの赤ちゃん。たつひこたちが帰ってきたら、教えてあげなきゃ。こういうこともあるんだって。
人間のあかちゃんって、性別が変わったりするんだ。知らなかった。