五+八=十二+一
目がさめると、わたしたちは木製のボートに乗っていた。
朝から何も食べずに寝転がっていた日みたいに頭が痛くて、起き上がる。舟の底に寝転がっていたみたい。
隣には龍彦が、さっきのわたしみたいに丸まって眠っている。
すうすうと柔らかい呼吸が聞こえて、白いまつ毛が揺れる。わたしが起きて寒いのか、くしゅんとちいさくくしゃみをした。
わたしは上衣をいちまい脱いで、龍彦にかける。
あたりを見渡して、まばたきをする。
一緒に舟に乗りたいね。って
そういえば、前に言ったっけ。
……ぼんやりとした意識のなか、龍彦の頭をそっと撫でながら水面を覗き込む。川。……なのかは、わからない。海かも、湖かもしれない。水に見える気もするし、何もない空に浮かんでいる気もした。
夢みたい。
あたりは薄暗くて、でも朝焼けのような夕焼けのような、仄かな光が何処かにある。透明なサカナが水か空かを泳いで、ときどきウロコがはじける音がした。
二日目。龍彦の頭を撫でるのをやめて、サカナの影に手を伸ばそうとする。
「離すな」
すんでのところで白い手に絡めとられて、サカナはとおく消えていった。
……振り返って、龍彦を見る。
まだ眠そうな瞼を重そうに持ち上げて、まどろんだあかい瞳でわたしを見つめていた。
「おはよう。着物、はだけちゃってるよ」
「…………直してくれ……」
甘えられたのがうれしくて、上体を起こした龍彦の前を直そうと近寄る。はだけた着物の隙間から、まっしろな胸板。
ちょっと惹かれて、頬擦りしちゃう。
「ふふ」
「……。くすぐったい」
身じろぎしたけど、押し返されはしなかった。
だから龍彦の胸板に寄りかかって、はだけた着物はそのまま。龍彦はそれを黙認して、さっきわたしが龍彦にかけた上着と一緒に、わたしを包み込む。
ふたり舟に揺られた。何処へ行くのかわからないまま。
三日目、わたしは龍彦の心臓の音を探した。龍彦はぼんやりとして、ときどきわたしを抱きしめなおす。木船がぎしりと音を立てて揺れる。ふと天を見上げると、金銀にひかる星がいくつか見えた。
何という星だろう。しばらく見つめていると、それらは燃えて水面に落ちていった。
なにか、しゃべらなきゃ。
「龍彦」
おへんじのかわりに、龍彦の頭がわたしの口元にほんのすこしだけ寄った。
「いっしょにおふねに乗りたい、って言ったの、覚えててくれて、ありがとね」
誰にも聞かれないよう、こしょこしょおはなしする。あの星にもサカナにも聞かせたくはない、龍彦だけに聞かせたいわたしの声。
言い終えて、龍彦の目を見つめる。龍彦はゆっくりまばたきして、ただわたしを見つめて、目を閉じて、……口にちゅうをしてくれた。
うれしくて、寄り添う。きっとあんまり喋りたくない気分。でも寂しい気分だから、わたしの声は聴いていたい気分。
龍彦はけっこう気分屋さんだから、わたしが気づいて合わせてあげる。だって、好きだから。ばかなわたしにもできること、なんでもしてあげたくなっちゃう。
四日目、舟を揺らしていた水面が土色に濁って、サカナの影たちが息絶えていった。
ねえ、ねむくなっちゃうね。どっちが先に、寝ちゃうかなあ。いまはね、龍彦のほうがねむたそうだよ。でもわたし、ねむそうな人を見ると、ねむくなっちゃうからなあ。……
ゆっくり、しずかに喋った。龍彦のまどろんだ心地が晴れないように、曖昧を保ちながら。いつまでも寄り添って、龍彦の存在を感じる。
「降りたかったら」
…………。
ふい、と上を見る。龍彦の顔は覗かない。
ただ、言葉に揺れる龍彦の喉元を見上げる。
「降りて、いい」
櫂もない舟の上、わたしたちはわたしの鼓動に揺られている。
降りないよ。
おへんじ。
そうか。
沈黙。
…………曖昧に龍彦の胸板に寄り添っていたのを、龍彦の背中に手を回して明確に抱きつく。
耳元でささやく。ふふ。笑ってから、たつひこ、すきだよ、って。だいすき。って。
かならずつれていってね。って。
龍彦は黙ってわたしを抱きしめる腕の力を強めた。もうすぐわたしのさいごのいのちが、わたしの意志に反して龍彦の邪魔をする。
ほら、きた。サメちゃんみたいね。セイレーンにも見える? 嘘。そんなにキレイじゃないもん。……
からだとこころは伴わないから、わたしじゃないわたしが舟の端に群れて近寄って、龍彦に泣きつく。
やめて。たつひこ、やめてえ
おねがい、いたいよ
こわい、たすけて、たつひこ
龍彦の呼吸とからだが、しずかに震える。まどろんで俯いていた瞳を、わたしに向けてくる。わたし以外のわたしを視界に入れないよう、わたしの顔にじっと寄って。
無表情。努めて。
だってこのひとは、なみだの止め方を知ってしまっている。
わたしは、わらう。
わたしは龍彦の耳を塞いだ。今度はわたしの胸元に龍彦の顔を埋めて、龍彦の耳を塞いだ。
大丈夫だよ。聞こえていないのに、つい口にしてわらった。大丈夫だよ。いまだけは、わたしの胎内でねむっていて。
そうして三日が経った。あたりを見回す。
わたしが、わたしをじっと見てた。
片方の手をわたしに伸ばして、龍彦のかわりに頭を撫でた。
それが終われば口に指を当てて、しい、と言う。
「もう、しずかになる時間だからね」
それは七日目が終わる頃だった。ずうっと揺られていたのだ。
しずかになったわたしたちはきらきらきら、蛇のウロコになって水面を泳いでいった。待っているからねって、もうすこしだよって。うねる泥を渡っていく。
そうっと龍彦を離すと、いつの間にか龍彦はながく眠っていて、わたしはしずかにそれを抱いた。平穏そうにねむっている、かわいいねがお。
ちゅうをするのは、龍彦が起きている時がいい。
しばらくはおあずけ。
さっきのが、さいごのちゅうになったんだね。
目の前にいるのにおあずけなのが悲しくて、主義に反してしてしまおうかとも思った。けれど、やめた。龍彦があんまりしずかにねむっているから。愛おしくって、やめた。
ね、龍彦。うたっててもいい?
ねむっている龍彦のおへんじが、風になってわたしの頬を撫でた。でたらめな歌をこしょこしょ歌って、かみさまがお手紙を書くのを待った。
そう、たとえ蝿になってでも、すきなひとのさいご、そばにいたいようなかみさま。穢れてでも、穢してでも愛したいかみさま。
六日かけてお手紙を書いたかみさまは、きっと八日目に勇気を出してお手紙を渡すんだね。
龍彦にうたを聴かせた。龍彦のわたしのかわいい声、龍彦のためだけの声を聴かせた。龍彦が起きることはなかった。
うたが終わって、龍彦を見つめる。龍彦が風邪を引いたらたいへんだから、ぎゅっと抱きしめる。
もうすぐ八になるね。だいすきよ。……
舟底に戻る。丸まってふたりで眠って、舟底を埋める。わたしたちを見つめることができるのはしずかに見守る天だけになって、わたしたちはまた、目覚めるときまでいっしょに眠った。