「ぼく、彼女とは付き合ってませんよ」
「ぼく、彼女とは付き合ってませんよ」
パンプスもなんだか不釣り合いだ。上手く歩けているだろうか。
引かれた拍子によろけたわたしを、彼の腕がいつの間にか支えている。
伏せ目がちにわたしを見つめて、ぎこちなく口を開く。
「ぼく、その、誤解を解きたくて。今日お誘いしたんです」
彼がゆっくり歩き始めると、彼の手は適切に離れていった。
つられて、わたしもまた歩き出す。
「……というと?」
「ほら、日本には告白という文化があるでしょう」
彼によれば、彼女に一時興味をもって自分から話しかけたのは事実だが、日を重ねる毎に違和感を覚えていったそうだ。
なくなっていくパーソナルスペース、頻繁に送られてくるメッセージ、彼女に費やさなくてはならない休み時間。
仲良くなったことは事実として存在するが、友達という域を超えてエスカレートしていく彼女の行動を、実は不審に思っていたらしい。
「ぼく、彼女に告白なんてしてません。恋人になろうとか、伝えてもいないし……思ったこともないんです」
…………言われてみれば、たしかに。
アクションはいつも彼女からだった、気がする。彼から彼女に話しかける、または彼女の元へ行くところを見たのは、わたしが見た中では初めの1度きりだけだったような。
たしかに高校卒業から今日まで、龍華の相談のメッセージは凄まじかった。それだけ彼女が追い詰められているということだと解釈していたが、おそらくあれは、ほんとうの恋をしてからの彼女の癖なのだろうか。
確かに彼に恋をしてから、随分と盲目的になっていた。
それらを踏まえると。
「ぼく、生まれは海外ですが、日本に来てからはちゃんと日本のしきたりに従っているつもりです。挨拶とか、距離感とか、頑張って勉強して…………でも、だめだったのかも。何か悪かったのかもしれません」
龍華が盲目に暴走していただけ?
…………いや、そうだとしたら、…………わたしはとんでもなく申し訳ないことをしでかしてしまっていたのではないか?
「それでも、貴女にはどうしても伝えたくて。いいタイミングだと判断して、つい。無理やりお誘いしてしまいました……すみません」
後ろめたそうに、申し訳なさそうにぽそぽそ喋る彼の様子を見るに、嘘をついている様子はない。
だとすれば、わたしは。
「……いや、こっちこそごめんね。ていうか2人の問題だし、外野が口出す事でもないのに……龍華の話だけ聞いて意見しちゃって」
「いえ、仕方ないと思います。むしろ貴女に迷惑をかけてしまっているのではと思っていて」
「えっそんな」
「ほら、こういう時の相談相手は同性の友人でしょう。巻き込んでしまって申し訳なくて。だからこそ……その、訂正したくて」
…………大変に申し訳ないことをしていた、という事実に気づいて、頭が真っ白になる。
「今日も無理やり誘ってしまいましたし……不自然でしたよね。たぶんすごく不快だったと思います、すみません」
「いや……」
この人が謝ることは、元から何ひとつないと思う。
というか、こんな善良な人に勝手に嫉妬して失礼な態度をとっていたわたしって。
本当に申し訳なくなって、龍華も龍華で何をやっているのだという気持ちと、わたしの愛した人の恋が、実は拒絶されていたことへの寂しさが湧き上がった。
「本当にごめんなさい、君は何も悪くないよ。何か、そう、お詫びができれば……」
「そんな。お詫びだなんて仰らないでください」
ぼくは、誤解が解けただけで十分なので。
にこりと微笑んだ彼が、今までどんな気持ちで過ごしていたか。
計り知れない。……ただただ申し訳ない。
「ごめん、本当に」
「そんな、良いんです、謝らせるつもりでは……。あ……じゃあ、違う話をしましょう。スーツ姿もとても可愛いですね」
そう言って、冗談で空気を和ませようとしてくれる。
びっくりするような冗談だけど、彼がやさしいのは十分にわかった。また更に申し訳ないが、ここで平身低頭を続けてしまっては彼も気を遣ってしまうだろう。
「はは……なんていうか、ありがとう」
「あ。冗談だと思ってますね。ねえ、可愛いです、本当ですよ」
「ありがとう、ありがとうってば。じゃあ、ドストエフスキーくんも似合ってるよ、スーツ」
無事に入学式を終えて、その日はそれで終わり。
ずっと一緒に居たけれど、やっぱり彼は何人かに話しかけられて、連絡先も何度か訊かれていた。
そのたびに彼は一瞬だけ困った顔をして、それでも嫌な素振りを見せないようにこやかに応対していた。
察するに、彼は器用な上に、ものすごく人が良いのだろう。だから断りきれなくて、そして上手く対応できるから、嫌でもしてしまう。
たぶん、押しに弱い面もある。龍華との仲を誤解してしまっていたことを更に申し訳なく思う。
「行こう、予約間に合わなくなっちゃうよ」
何度目かの声掛けでわたしが痺れを切らしてしまって、適当な嘘をついて彼の腕を掴んだ。
その後は不必要な声掛けと判断したら、急いでいる旨だけ伝えて立ち止まりもせず彼女たちを通り過ぎてしまった。
わたしの勝手な判断なので、そうとう出しゃばっていることになる。
「その、ごめん、なんだろう……立ち止まりたい場合は言ってね。例えば、えーと……好みの子に声かけられたとか、うん、そういうの」
あまりに立て続けに声がかかるものだから、わたしが声をかけられているわけではないのに、ドラマの展開みたいで動揺してしまう。
配慮のつもりで一言かけたが、ドストエフスキーくんはええ、と驚いて、おかしそうに笑った。
「ないですよ、そんなこと。嬉しいです、ありがとうございます」
「え、普通に彼氏だと思ってた」
「え」
ぎんいろのフォークを、かちゃんと落とした。
……静寂のあと、やっとのことで「……な、なんで」と絞りだす。
入学してからはや1ヶ月。この友人とは講義が幾つか被っており、そこから仲良くなった。昼前の講義が一緒の曜日はこうしてお昼も共にしている。
そんな彼女から、ドストエフスキーくんとの関係を訊かれたのはつい先ほどのことだ。高校からの知人、と答えた。
「だって、フョードル君ってなまえ以外の子に話しかけたりしないじゃん」
「いや、それは接点がないからじゃないかな」
「なまえの牽制がすごいからだと思ってた。束縛彼女的な」
「そくばっ……」
「ほら、入学式の日から噂になってたし?」
ご、誤解だ。
あれは彼の気持ちを守るためにしていたことであって。
「最初はめちゃくちゃやばめの事情あるカップルが入ってきたんだと思ってた。てか多分みんなそう思ってる」
話してみたら、全然そんなことなかったけどさ。
けろりと言い放つ友人に、とんでもないと言い返すべく口を開く。しかしその直前、随分聞き慣れた声がして、反論は不発に終わることとなる。
「なまえさん、フォークが落ちちゃってますよ」
ふと下を向くと、自分のごはんをトレーに乗せたドストエフスキーくんが、器用にしゃがんでフォークを拾ってくれていた。
しまった。拾うの忘れてた。
「あ、ごめん……ありがとう」
「いいえ。ぼくのを使ってくださいな」
パスタと一緒にトレーの上に置かれていた、彼のフォークを手渡される。わたしが落としたフォークは、彼のトレーに置かれたままだ。
「えっ申し訳ないよ、自分で交換してくるから」
「良いんですよ。立ってるついでです。では」
そう言って颯爽と歩いていってしまう。
また気を遣わせてしまった、と落ち込んでいると、そんなわたしを友人はニヤニヤしながら見ていた。
「……なに」
「やばめの事情あるカップルじゃなくて、相思相愛のカップルってカンジ?」
そんなことを言われたって、わたしたちは付き合っていない。
「誤解だよ」
「あっちは満更でもないでしょ。なまえへの好意見え見えだもん」
「違うったら違うよ」
「でもほら、外国出身だし、あっちからしたら告白しなくても恋人認定なんじゃない?」
「そこは日本文化に従うって本人が言ってたよ」
「なにそんな話する仲なの!? そんなの言ってくるなら告白待ちか告白準備中でしょ」
……。どうやら何を言っても届かなそうだ。
諦めて、綺麗なフォークをくるくる回した。ドストエフスキーくんのやさしさに感謝を込めて。
実際、彼のやさしさに驚く瞬間もある。勘違いしそうになる時も、正直に言えばあった。
けれどそれは彼のやさしさに対して失礼なことだし、それに高校時代を女性関係でめちゃくちゃにされた彼を思えば、そんな邪な考えができるはずがない。
何より、龍華のことを思えば、なんだか後ろめたいことだ。
わたしはもう彼女のさまざまを気にする立場にない人間だとも思うが、それでも主義と本音はまた別のところにあるのだ。ムズカしい。
「そんなこと、困ったな、でも、ここじゃ迷惑ですから、その……」
そう、難しいのだ。わたしは情を引きずって、情に引きずられやすい性質をしている。
だから、もし校門の前で元恋人と、思うところのある知人が口論していたとしても、わたしはどうすればいいかわからない。
そう、わからないのだ。わからなすぎる。
「私、1ヶ月も待ったのに、どうして何も返してくれなかったの? 私、何かした? ねえ、でも会えてうれしい、忙しかったんだよね、一緒に帰ろう、どこか寄ろう。家に来てほしい」
「いえ、ぼくは……」
「え? なんでことわるの? 私のこと嫌いになったの!? 前はあんなに好きって、どうして!?」
「そんなこと、困ったな、でも、ここじゃ迷惑ですから、その……」
わから……わからない。わたしはどうすればいい。というか何もしないで良いんだったらこのまま何食わぬ顔で通り過ぎて帰って寝たい。でもこの学校に校門はひとつきりで、しかもどちらも知り合いで……あああ……。
ある日の講義終わり、おそらくずうっと待ち伏せしていたであろう龍華と、そんな彼女に両腕を掴まれて至近距離で問い詰められているドストエフスキーくんを見つけた。
何やら龍華が、一方的にドストエフスキーくんに言いまくっているのが見える。随分やつれたようだ。あの美しさが、勿体ない。
道行く人はそんなふたりを興味ありげにチラチラ見ていて、共感性羞恥というのだろうか、なんだかすごく逃げたい気分だ。知り合いなだけに、ほんとうにいたたまれない。
龍華とは最近連絡すらとっていなかったから、まさか待ち伏せまでするほど追い詰められているとは知らなかった。それにしても中学時代の彼女と比べると信じられないくらいの行動の差である。恋とはここまで人をおとすのか。
ここで、わたしの彼女への心は明確に終わった。ここまで来ると可愛げも感じなくなり、わたしが焦がれた人間とは別人だ。
だから逃げてしまっても良かったのだが、あの場にいるのは龍華だけではない。そちらの人物には、先日借りを作ったばかりだ。
「ドストエフスキーくん」
色々と諦めて声をかける。
すると彼女は振り返って、わたしを見た。ドストエフスキーくんも驚いたようにこちらを見て目を丸くしている。
「ああ、なまえいいところに、あのね、あのねフェージャくんが、」
「ああ久しぶり。ドストエフスキーくん、行こう。予約の時間に遅れるよ。じゃあね龍華」
ドストエフスキーくんを離して、わたしに向けられた龍華の手をぱんと弾いて、ドストエフスキーくんの腰に腕を回して強引に歩行を促す。するとドストエフスキーくんは瞬時に理解してくれて、戸惑いつつもわたしの隣をキープしてくれる。
「は?」
複雑な心境ではあるが。
ひとつ言えるのは、あんなに威圧的で大きな声を出す彼女ではなかった。
「ちょっと、なに、どうしてなまえ? まってよ、ひどい」
追い縋ろうとする彼女の声が近くなる。まあ、そうなるに決まっている。
……まずい、この後を考えていなかった。
当然のごとく彼女の手がわたしの腕を掴む。痛い、と思った矢先、その感覚はすぐになくなった。
代わりに、胸がぎゅうと暖かくなる。
ドストエフスキーくんの腕のなかにいた。
「すみませんが」
……とても冷たい声だ。聞いたことがない彼の声。
「ぼく、貴女と恋人になった覚えはありませんし、なまえさんとお付き合いしているので。触らないでいただけますか?」
彼が一体、どんな表情をしているのか。
見えないから、わからないけれど。ちらりと見える龍華の顔で、なんとなく察した。
流石のドストエフスキーくんも今回の件は怒ったみたいで、なんと自分で言い返している。これはわたしが出る幕はなかったのではないか?
……。というか、その。
「行きましょう、なまえさん」
今度はわたしが手を引かれて歩き出す。ぎゅっと繋がれた手をどうすればいいかわからない。
まわりからヒュウヒュウと何か、お熱いねえだのなんだの聞こえるがそんなことにいちいち気をやれない。何もかも聴き取れないまま、校門前を後にした。
「付き合ってないって、私の告白に、ぼくも好きって言ってくれたのに! あれはなんだったの!?」
…………大学の最寄り駅から電車で移動して、すこし落ち着くために辺鄙な駅の喫茶店でブレイクタイム。
と言ってもお茶をしばくくらいでは落ち着けるわけもなく、ぎこちなく注文してぎこちなく飲んでいた。
まあ、先程のは口から出まかせというか、つい勢いで言ってしまっただけなのだろう。とにかく無事で良かった。
とは言え、これからのことが若干不安ではある。特にわたしの。
「はは……」
先程から、ドストエフスキーくんではなくわたしの携帯に鬼電が来ている。……彼女の中で完璧にわたしが悪いやつの立ち位置にいる気がする。
まあそうなるか。
とりあえず着信拒否にして、メッセージも届かないようにする。とんだとばっちりを受けたものだと思ったけど、よくよく考えてみるとドストエフスキーくんが標的になるより被害が少ない気がするのであまり悲観しないことにした。周りから見ても女同士の醜い争い、くらいにしか見えないだろうし。
というわけで、何もかも気にしないスタンスでいこう。
「いやー大変だったね」
沈黙を破って、やっと先程のことを話題にする。すると彼は心底申し訳なさそうに眉を下げて呟いた。
「すみません、なまえさん」
「謝ることはないよ。災難だったね」
「いえ……ここまで巻き込んでしまって、本当に申し訳なくて。電話も……」
「ドストエフスキーくんが原因ってわけじゃないでしょ」
「でも」
「それより今後気をつけてね。待ち伏せじゃ済まないかもしれないから、何かあったらちゃんと相談するんだよ。わたしに連絡してもいいし、とにかくちゃんとドストエフスキーくんのことを信じてくれる人に連絡してね」
この話終わりー、と一方的に話を終わらせてお茶をごくごく飲む。
これ以上話したって現状は変わらないのだ。とにかく彼女がこれで諦めてくれることを祈るしかない。それはそれで不安ではあるが……。
「なまえさんは」
ふと顔を上げて彼を見ると、口元にすこしだけ笑みを浮かべていた。
怖かったはずなのに、なんだか健気だ。
「なまえさんは、ぼくのこと信じてくれてるんですね」
……。変なこと言う。
「ぼくが嘘をつかないって、そう思ってくださるのですね」
「そりゃ、まあ。現場見てるし。疑う余地ないからね」
「じゃあ、先程のことも、ほんとうにしてくださいますか?」
「?」
なんだか抽象的で、彼の言いたいことがよく理解できなかった。
彼はそれ以上言わないで、じっとわたしを見つめてくるだけだ。どうやらヒントはくれないらしい。
すこし考えてみる。ドストエフスキーくんが言った、ほんとうじゃないこと。
…………。なんだか妙に顔が熱い。いや、まさか。勘違いだったら恥ずかしいから、もうすこし考えてみる。他に、何か。何か……。
考えても、ひとつしか思い浮かばない。
かなりの時間黙りこくったわたしの手に、ドストエフスキーくんはそっと自分の手を重ねてくる。
触れた指が、跳ねてしまう。恥ずかしくて逃げたいのに、体はへんにだるくて、なぜか逃げたくなくなってしまう。
誠実で、それでもどこか甘えたような柔らかい声が鼓膜に響く。
「ぼく、このままでは嘘つきになってしまいます。…………なまえさん、好きです。どうか貴女のお心で、ぼくを正直者でいさせてくれませんか」
…………帰り道は変な心地がして、よくわからなかった。……ひとまずわたしにはおそらく恋人ができたことになって……ううーん。
その実、驚きすぎて喫茶店でははい付き合いましょうよろしくお願いいたしますなどという明確な返答ができなかったのだ。
まあ、曖昧なかんじだったらすぐに自然消滅するだろうから、彼の一時の気の迷いだった時のためにこのまま曖昧にして帰ろう。
「ぼくたち、今日から恋人ですね」
曖昧なかんじで終わらせてくれなかった。
「まあ……」
「恋人ですよね」
「うん」
「……違うんですか?」
しゅん、みたいな顔をしないでほしい。
「恋人だよ、多分」
「多分って?」
…………その、まあ、前の恋人と自然消滅だったから、曖昧なままが楽かなあ、とも思うのだけど。
「いや、恋人だね。恋人です。よろしくお願いします」
「ふふ」
わたしがやっと明確に認めると、彼もやっと満足したようで、心底嬉しそうに笑った。
その顔すら最早直視できなくて、自分が自分でないような気がしてしまった。処女というわけでもないのに、なんでこんなに初心な反応しかできないのだろう。
「そうだ……これを言っておかないと。ねえ、ぼく、嘘をついていたことがありました」
「え。……なんだろう」
今回ばかりは本当に心当たりがなくて、まさかやっぱり恋人になるのが嘘なんじゃないだろうか、なんて考えてしまった。
でもそう考えて、すこし残念に思うような自分もいるから、やっぱりわたしは彼のことを良く思っているらしい。
もうすぐ星の夜になる。
「ぼく、彼女に話しかけたのは……本当は、貴女に近づきたかったから」
でも照れてしまって、だから彼女に近づいたんです。
「………………、…………そ、うなんだ。……」
「ねえ。手、繋いでも良いですか」
「え、……ちょっと早い……かも」
「恥ずかしい?」
「うん……やっぱり、改まると、心の準備が……ごめん」
「良いんですよ。嬉しいので」
「?」
「それって、ぼくのことを意識してくれてるってことでしょう」
「なっ」
「昔のぼくと一緒ですね」