「彼女とはもう別れましたよ」


「彼女とはもう別れましたよ」



 パンプスもなんだか不釣り合いだ。上手く歩けているだろうか。
 引かれた拍子によろけたわたしを、彼の腕がいつの間にか支えている。
 じっとわたしを見つめて、平然と口を開く。
「だから、もう何もないんです。彼女との縁はおしまいですよ」
 彼がゆっくり歩き始めると、腰を抱かれたままのわたしもつられて歩き出してしまう。
 ……龍華からそのようには聞いていなかったが、そうなのだろうか。ふたりの関係のことだから、わたしには真実がわからない。
 それにしても、何故彼の腕は離れないままなのだろう。
「そうだったんだね。あ、支えてくれてありがとう。もう大丈夫だよ」
 そう言って、こちらからやんわり離れようとする。しかし、腰に回された手にぐっと力を入れられて、それは許されなかった。
「え、なんで」
「慣れない靴でしょう? 危ないですよ」
 だから、だめです。
 有無を言わさない甘い声色で囁かれて、背筋がぞくりとした。
 ……理由は、やさしいのだろう。確かにわたしは慣れない靴を履いていて、その不安を見抜いての行動ならば、とてもやさしいことだ。
 けれど何故だかそわそわする。これをやさしさと受けとって、いいのだろうか。

 結局、彼の手は大学に着くまで解かれなかった。





「じゃあ、帰りましょうか」

 入学式も無事終わって、すぐに帰ることにしたが、帰りも彼は共にするつもりのようだった。特に断る理由も思いつかなかったから、成り行きという形で一緒に帰るけれど、なんだか自分の本心は嫌がっているように感じる。
「せっかくだから、どこかでお茶をしましょう」
「え、うーん……」
「一緒に時間割を決めましょうよ。その方が安心ですよ」
 なんとか早めに解散できないだろうか。頭に不快感を溜めつつ、彼から少々距離をとって歩いていると、わたしのいる反対側、彼の隣から女性がひとり近づいてきた。
 かわいらしい女の子。おずおずと彼に寄って、口を開く。
「あの、」
 ……聞こえなかったみたいなので、彼のスーツの裾を引っ張る。するとやっと足を止めて、「はい、なんでしょう」とわたしに微笑んだ。
 用があるのはこちらではない。女の子のほうを指さす。それでも目が合う。
「貴方に用があるみたい。どうしたんですか」
 なるべく、知人じゃない、みたいに認識してほしくて、彼に不自然がられない範囲で他人行儀に話す。
「あの、新入生の方ですか? 私もなんですけど、もしよかったら連絡先とか、みんなで交換しませんか」

 ……。しめた、と思った。
 これは最高のタイミングではないか。
 見たところ近くにこの女の子のグループと思しき子たちが固まってこちらを見ている。おそらくわたしには用がないだろう。
「あ、わたし急いでて。すみません。じゃあ皆さんで是非」
「はい!」
 はいって言われた。

 やっぱり初めからわたしは頭数に入っていなかったようだ。かなり元気にお返事されたので、普通ならかなりショックを受けるところだが、今はむしろ嬉しい。そそくさと彼から離れて、小走りのまま駅のほうへ向かう。
 ある程度離れたところでちら、と後ろを見ると、女の子たちがしっかり彼を囲んでくれていた。
 良かった、と思い歩幅を戻す。
 その時に彼がふいとこちらを向いた。

 じっと目が合う。わたしを見ている。

 さっと目を逸らした。

 知らない、知らない……わたしは彼と関係がない。増して、彼女と別れたのなら尚更だ。大学が一緒なだけ、出身高校が同じだけの人。
 それなのに、なんだか、とてもこわい。何を考えているのかわからない言葉選びと態度が、なぜだかわたしの嫌悪感と恐怖心を煽る。高校いちねんせいのころの、あの彼女を、彼が…………いや……ちがう……そうじゃないと決めた、……わたしから彼女が離れていく感覚と似ていて、ああいや、もう……。







「ねえ、もうちょっとドス君に優しくしてあげたら?」
「そうそう。あんなに優しい人にひどい態度とるの、どうかしてるよ」

 そうしたかったから、わたしは彼を徹底的に避けた。

「いや……わたしは、ならせめて関わらないようにしたいから、放っておいて」
「なにそれ、こっちは善意で言ってあげてるのに我儘過ぎない? こんなに我儘な人初めて見た」

 それが理由で幾ばくかの人間に露骨に嫌われたけれど、それでも後悔はしない。
 それにしてもだいぶエグみのある嫌われ方をしているように思う。彼は素敵な見た目をしているだろうから、それもあってのことだろうが、きっとそれだけではない、気がする。

 確証はもてないけれど、なんだか彼は、わたしとの関係をひどく気にしているというか、最近は周りの友人にさまざまを相談している、らしい。
 彼からこう聞いたよ、だとか彼にこんなこと言ったんだって、こんな態度とったんだって、なんて叱られることが大変多い。彼とわたししか知らないはずの些細なことが他人に共有されている。それが本当に気持ち悪いというか、個人的にはとても嫌だ。
 わたしもわたしで彼に友好的でないことは認めるが、それなら彼も彼で接触を試みないでほしい。最近はわたしも面倒になってしまって、順序を踏んで着々と冷たくしてしまっているはずなのだが。
 メッセージもほとんど未読無視か既読無視で済ませる。いくつか被っている時間割では一緒に授業を受けましょうと誘われたけど、それもひとりで受けたいからと断った。隣に座られないように講義ギリギリに教室に入るなどという要らない努力もしている。
 それでもわたしの席をわざわざ取っておいてくれるなどの要らない配慮をしてくるので、端的に貴方とは一緒に居たくないと断ったくらいだ。
 もうじゅうぶん諦めがつくくらい冷たくしたはずなのだが、まだ足りないのか。
 こちらとしてもこれ以上は何も出来ないし、冷たく接するほうも結構傷つくのだ。やめさせてほしい。

「なんであんなに良い人の好意を受け取ってあげられないの? いい加減大人なんだから仲直りしなよ」
 好意を受け取らないことが悪者に直結する安易な考えで他人の問題に首を突っ込まないでほしい。
 ……言い過ぎか。
 
 彼が何故わたしのことをそんなに気にするのかはわからない。元からそれほどの仲でもなかったのに。
 となると考えられることとしては、あまり嫌われることに慣れていないのかもしれない。彼のスペックを考えれば有り得る。見た目も中身も誰からでも好かれて、龍華をはじめとした女性からも多くアプローチを受けているし。
 露骨に嫌悪を示してくる人間に会ったことがなくて不安なのか、人は皆話し合えば分かり合えるというような思考の持ち主だったのか。
 ひとまず結果的には、今のところ友人関係においては彼の身の振り方が一枚上手だったということだろう。

「いやあ本当に申し訳ないんだけど、本当に無理になっちゃって……ごめんね。わたしのことはもうほっといて、あなたたちと楽しく過ごせば良いのにねえ」

 へらっと笑って悩む顔をすると、彼女たちは怪訝そうな顔をした。

「詳しく言うとドストエフスキーさんにも悪いからアレなんだけど、高校時代のあれこれでどうにも無理そうでさ……これ以上はもう拒絶しかできないから、彼のためにもわたしに構わないように囲っといてあげて。お願い」





 結局、わたしと仲良くしたい彼の希望よりも、彼に構う女性の欲望とわたしの利害のほうが一致しているのだ。
 恋する女の気持ちは、わかる。わたしも恋をしたからだ。
 こういう結託は同性、もしくは同性性間のほうがじょうずに行えるような気がする。関係の利害や契約保証というのは、忖度なしには同性間でしか確定できないものがある。
 彼女たちも悪い人ではない、なにせ彼から相談を受けてこのように思わず行動してしまう人だから、共感しつつ配慮の矛先を逸らせば分かってくれた。

 彼は龍華と別れたばかりなのに、どうしてこうも他の異性との関わりに固執するのか。
 龍華から聞く限り、彼はもう龍華に連絡をとっていない。わたしに冷たくされることより気にすべきことがあるはずだろう。
 一体何がしたいんだ。自分に溺れてかんたんに何もかも差し出してくるような龍華の友人だからと軽く見られているのだろうか。

 …………。なんだか最近、自分がひどく擦れてしまったような気がする。

 まあふたりの間に肉体関係があったかなんてわたしが知ったことではないのだが、とにかく彼も龍華も、面倒で迷惑だ。もういいだろう。
 大学の勉強が、今は楽しい。ふたりに構っている時間なんてないのだ。彼の相談を受けた人間の相手も、龍華のメッセージの相手も、もうじゅうぶんだ。
 龍華との恋は完全に過去のもので、そうなってしまった今、わたしと彼はなんの関係もない。あるのは嫉妬の名残の嫌悪と敵対心で、それを誤魔化して仲良くする必要もない、本当は冷たく接してなるべく離れられるようにする努力だって要らないはずなのだ。
 もう何の対応もしない。ふたり纏めて捨ててしまおう。
 思えば、この大学の受験会場で彼を見つけた時から、ずっと嫌な気分で居たのだ。もう解放されて良いだろう。








「っぼく、あやまりますから、もうつめたくしないでください、さみし、さみしい、です」

 もう解放されていい。
 はずなのだが。

 解放されていいはずのわたしは現在、大学のキャンパス内、しかも各施設の行き来に通りかかる広場のど真ん中で彼に泣きつかれている。

「うわ、え? やばくない? ……」
「え、ドス君かわいそうすぎる、ちょっと、みんなに連絡」

 ……ここまでくると彼の行動すべてが計算されたもののように思えてしまう。何もこんな、他者が大勢見ているなかで泣かなくても良いのではないか。
 まあ実際、彼に冷たくしているわたしが全面的に悪いのだが、こうまでして彼がわたしに執着する理由がわからない。

「ごめんなさい、ごめん、っなさい、ゆるしてください、」

 そう、執着、だよな。ここまで来ると。
 涙を見ても苛立ちが募る。ほんとうに、彼はわたしを不快にさせる天性の才能があるのだと思う。
 だって、ほんとうに、不快、だ。
 涙が溢れ出る瞳を片手の手の甲で何度も何度も擦って、目元を赤くしながらわたしに向かう。もう片方の手は控えめにわたしの服の袖を掴んでおり、傍から見ても泣いている相手はわたししか居ない。
 そんな状況で逃げるのは難しいと思う。既に周りの注目を集めてしまっているし、何より彼のこの手が、わたしが逃走を謀ろうとした際にどれくらい抵抗してくるのかがわからない。
 この、かなり注目された状況になると流石に彼の取り巻きの女性たちも割り込んで来られないのか、ひとまず仲間を集めることにしてしまったらしい。本当は今すぐ彼の助けに入ってほしい。早く彼からわたしを引き剥がしてほしい。
 ああ、もう。

「ドストエフスキーくん」

 わたしが名前を呼ぶと、彼はぴくりと反応してやおら視線をわたしに寄越す。
 ……ああなんだろう……正直、目が合うのも嫌だ。瞳から心臓へとうめいでない感情が溢れそうになる。
 彼の涙を見て、驚きはした。したけれど、それよりも思ったのは、何故おまえが泣いているのかということ。
 名前を呼んだだけで、舌がなんだかきもちわるい。何故? 何故おまえが泣けるのか。
 ここまで拒絶反応を示すとは。正直、自分でも驚いている。
 でも、やっぱり。
 ああ、いやだ。

 いやだ?
 何故わたしは彼をこんなにも嫌うのだろう。

 ……わからないフリをするほうがみっともない。そんなの、分かりきっていたことなのに。



なまえ
「なあに、龍華」



 ……

 龍華とはもう会いたくもない。未練もなく、わたしをかんたんに捨てたことへの怒りしか存在しない。
 でもそんな状態にしたのは誰って、決まっているだろう。

 それを知りもしない彼が。
 そう、わたしは嫌い。



「もうやめよう、お互い」
 ……、……。
 今しかない。
「わたしはね、どうやっても貴方とうまくやっていくことはできないよ」
 どういうつもりかわからない。おまえは。
 わたしから龍華を奪って、けれど捨てた。……わかっている……彼はわたしと龍華の仲を知らない。けれど憎しみは、ある、そうだ、それを知る由もない彼が憎い。説明もしてやらない。この感情は、わたしだけのものだ。わたしだけが知っていればいい。知る由もないおまえが、悪い。
 この矛盾だけが、わたしだ。
「だからね、もうわたしには関わらないでほしい。こうして泣かれたって、無理なものは無理だよ。みんながみんな仲良くできるものじゃないの」
 わたしを捕らえる彼の手をきつく掴んで、指を外させる。
 いい加減にしてほしい。きもちわるい。はやくつめたくなってほしい。つめたくなりたい。
 そうだ。わたしは大人へ向かわない。高校いちねんせい、あの日のわたしを抱きしめる。
「さよなら、ねえ、さよなら。龍華に連絡とってあげたら? はい、さよなら」
「ぼくのおうちで話し合いましょう」
 ……。



「は?」
 わたしに掴まれていた手が明確に変わった。手首が痛く熱くなる。
 瞬時に彼の目を見た。ぼっかりと開いて暗い目に、涙が乾いて死んでいく。
 乾いたくちびるが、わらう。
「貴女はぼくをわかっていない。わかっていないからそうなってしまうんです。知れば、受け入れられます。大丈夫ですから」
「は、ぁ、は?」
 信じられないくらい、乱暴な一瞬だった。
 腕を引かれて、無理矢理歩かされる。これで1秒もかからない、処理。よろけた腰をいつかのあの日みたいに抱かれて押される。
 なに、なにが起きたの。
「嫌! はなして、なん、なに」
 彼の豹変に困惑しつつ、やっと彼への"理解できなさ"の解答が得られた。
 やっぱりコイツ、おかしいんだ!
 必死に抵抗しようと、足にぐっと力を入れる。彼の腕を振りほどこうとすると、藻掻く一歩手前、力がこもる前に彼の声が届いた。
 なんてことない小鳥のさえずりみたいに、ふっと喋る。

 彼女の人生をめちゃくちゃにされたいですか。




 固まって、動けなくなる。

 つられて彼もゆるやかにわたしに寄り添う。まるくなって、わたしを包んで隠すみたいに、密着する。
 打って変わって、やさしく。

「……貴女がぼくと仲良くしてくだされば、何もしません。もちろん、貴女の嫌がることだって、もうしません。これからも、すべてしませんから、」
 来てください。来てくださいますよね。

 わたしは息が止まったみたいに震えた。
 ただそこに、見たことのない無表情でわらう彼がいた。









 彼女に興味は、なかったんです。

 ほんとうです。けれど、彼女があまりにも貴女と親しくしていたので、いやだったんです。
 どうしても、彼女を貴女から引き剥がしたかった。
 何もかも貴女のことが好きだからしたことなんです。貴女がよく思わないことはわかっています。けれど、そうまでして貴女を想うぼくのことをどうか許してください。ぼくがほんとうに愛しているのは、なまえさん、貴女だけです。

「どうかぼくの心に応えていただけませんか」

 ここに座ってくださいと命令されたソファの上、隣に座る彼に両手を握られて、聞きたくもない弁解を切々と語られる。
 彼の部屋の匂いに胸焼けがして、握られた手の生ぬるさに鳥肌が立つ。そんな状態で、この嫌悪で、何を言われても心に響くわけがない。
 彼は確信犯だったのだ。彼は好意のために動いたかのように説明するけれど、ちがう。悪意をもって彼女を誑かした。好きでもないのに付き合って、わたしから彼女を奪ったんだ。
 ゾッとする事実に怒りが爆発しそうで、頭が痛い。けれど、わたしには感情的に動けない理由がある。

 おそらく、彼女の人生は彼によってどうとでもできる。
 それが彼女の恋心を用いた方法か、何らかの個人情報を用いたものか、わからないけれど、わたしは彼女に不幸になってほしいわけじゃない。
 彼女があそこまで堕ちたのは、わたしのせい?
 わたしがこの男に目をつけられたから?

 ……いや……わたしの、せいではない。けれど、彼女の未来がわたしにかかっているのは確かだ。
 冷静に考えたいが、できそうにない。何も言えず黙りこくっていると、彼もすこし黙って、不気味な沈黙のあとに言葉を紡いだ。

「これからは、仲良くしてくださいますよね」

 多分、これが彼の最大限の譲歩なのだろう。
 あくまでもわたしの生活というものに入り込むつもりらしい。
 ここで間違えると、この先はすべておしまいが続く。

 ……。
 わたしがもし、恋をしていたとするならば。

 ここまではしない。だから彼のこの行為がわたしへの恋なのか、確信がもてない。彼のこの意味のわからなさは、わたしに解明できるものとは思えない。このひとの恋の仕方が、わからない。
 わからないは、こわい。









 ……何と返事をしたか、よく覚えていない。



 でも彼にとっていい返事を選んだのはわかる。
 わたしのその後のせいかつというものは、やわらかに疲弊していく幸福に包まれたからだ。

なまえさん、ちょっと頼っても良いですか……?」
「うん、どうしたの、ドストエフスキーくん」
「さっきの授業、すこしねむたくて……2番目のところ、聴き逃しちゃって。すみませんが、ノートを見せてもらっても良いですか?」
「もちろんだよ、コピーとる?」
「良いですか? ありがとうございます」
「うん、一緒にコピー機のところまで行こうね」
「はい! 本当に、ありがとう」

 はは良いんだよ。はは。
 生活に薄く膜を張った演技はうまくわたしに染み付いて、これがほんとうのわたしになってしまいそうだ。
 たぶん、そうさせるのが、上手い。
 彼の些細なコミュニケーションがそうさせる。裏には脅迫が働いていると言うのに、自分の演技によって、彼が善い人間なのだと、そしてわたしが彼にとって善い人間なのだと、錯覚しそうになる。
 というより、そう信じてしまえば楽になるという確信を持たせるのがほんとうに上手、なのだろう。

なまえさん、これ……ちょっと食べますか? 余っちゃいそうで。えへへ……」
「あ……こら、ちょっと今日のスカート短いですよっ。お似合いですけど、風邪引いちゃいますから……これ、座る時に上に乗せてください」
「そういえば、なまえさんの好きな服屋さん、新しいシリーズを発表してましたね。もし今日お時間あれば、一緒に見に行きませんか? ぼくも気になります」

 うん。ありがとう。そうだね。行こう、しよう、やろう。いいよ。大丈夫だよ。
 そうすれば良いという具合のお話ばかりだ。彼と話すたび、あたまがよわくなってくる。かんたんな、認めるだけのコミュニケーションで、すべて彼の思い通りに進むのだから。
 楽で、やさしく、そしてゆるやかに腐敗する。

 これに何の価値があるのだろう。
 わからないけれど、でもこれが彼の望んだことらしい。第三者に要らないお節介を焼かれることもぴたりとなくなった。あれから脅迫じみた発言をされることもなく、ただ円満に、充実したくらしを得ている。
 はじめからこうすれば何も起きなかった?
 うそみたい。そうやって錯覚していく。わかっているはずなのに、脳みそはかんたんに納得できるほうに揺れ動いていく。そうして今度は、彼に良いような提案や誘いが、だんだんと口からするりと出るようになった。それがふつうみたいに、わたしの癖みたいに。

「また明日」
「うん、また明日」

 ……何も波風を立てることもなかったのだろうか。
 わたしが悪かっただけ? そうなのかもしれない。彼はわけもわからず嫌われて、それであんな行動に出てしまっただけなのかもしれない。それなら、わたしが彼をそこまで追い詰めてしまったのだろうか。
 それは、とても申し訳ない。優しい彼にあんな行動をとらせてしまったのが申し訳ない。
 今からでも、たくさんつみほろぼしができるといいと、そう思う。









「随分、久しぶりになってしまっているね」

 ばちんと目が覚めたように、思い出す。

 彼女のひとみ、なびくかみ、はなし方のくせ。
 似たようなものでじわじわと思い出される。
「愚妹のいない大学生活は、どうかな。君にとって充実したものかい」
 …………わたしは、何も言えなくなって、
 売り物の本を握りしめた。せっかくの文字たちがくしゃりと、まだ誰のものでもなく歪に曲がる。


 彼におすすめの小説を教えてほしいと言われ、せっかくなら買って贈ろうと立ち寄った駅前の本屋。
 やあ、の声にふと振り返った。
 不思議な塔を冒険する本を手にとっていた時だ。幼いわたしの視野を広げた本、わたしに考え方を与えた本。
 善意は共通の正義ではないこと。猫は殺していけないこと。
 すぐれたものとそうでないもののはじめのいっぽの価値。

 …………何も言わないわたしを見た龍華のお兄さんは、わたし同様しばらく黙ってから口を開いた。
「……悪かったね。別に他意は無いよ。少し憂さ晴らしをしてしまった。私も妹が、厄介でね」



 赤い瞳に白い髪。
 龍華のお兄さん、澁澤龍彦さん。

 知っている。彼女の家に遊びに行ったとき、会ったことがある。彼女からたまに話も聞いていた。
 龍華が知らないことも、知っているひと。

 日本でいちばんの難関大学に院生として通っていて、大学の近くに一人暮らししていたはず。
 会いたくなかった。どうしてここにいるの。
「……帰省されてたんですか。お久しぶりです」
「両親に呼び出されてね。何でも妹の扱いに困っているそうだ。現状、私の回答としては打つ手なし、だが」
 ……お兄さんの言葉ひとつひとつがわたしに刺さる。責めているつもりはないのだろうけど、わざと言葉を選んで、反応を見て何か見定めているような。

 わたしは、このひとの視界に入るのが苦手だ。

「久しぶりに会えた記念に、お茶でもどうだい」
「いえ……わたし、そろそろ帰らないと」
「しかし、こう言っては何だがね。君に話してもらわないと、どうにも妹の状況を把握できそうにない。なんとか時間を作れないかな」

 そう言われてしまっては、なんだか断りづらい。
 それもそうだ。いくらわたしが彼女はもう関係がないと割り切っても、お兄さんたち家族にとっては解決するまで永遠に続く問題なのだ。
 ……すこし考えてから、説明するだけなら構わないと伝えた。するとお兄さんは満足そうに微笑んで、わたしの腰を抱く。
 わたしはそれを拒めない。嫌とも思わない。
 握りしめた本を、その指を解かれた。
「じゃあ、行こう。これは私が買ってやるから、……座れるなら、何処でも良いね」






 白を基調とした空間に、さまざまなお茶の香りが混ざる。それでも調和がとれているのは、きっとひとつひとつが素晴らしいからなのだろう。
 わたしは優秀なお兄さんを前にして、どうしても不安を拭えなかった。
 何から説明したらいいか、考えているうちにお兄さんは注文を終わらせてしまった。慌ててメニューを改めて見返そうとすると、お兄さんはわたしが好むものを先回りして店員さんに伝える。
「妹から聞いているからね」
 龍華はそれほどわたしのことを家族に話していたのだろうか。
 すこし気はずかしいような、今となっては気まずいような。ともかく居心地が良くないことは確かだった。手早く説明してお開きにしてしまおう。


 わたしは彼女の恋の話をした。ドストエフスキーくんに惹かれてからの彼女のようす、高校時代のふたりの日々。
 しかし、大学に入る前に破局したという真実。
 彼女の家族に伝えるには忍びない真実だとは思ったけれど、お兄さんたちのためにもきちんと伝えておかなければならないと思った。龍華には悪いが、彼には全く非がないことを強調した。本当のことなのだから仕方ない。
 今は彼女が単に暴走して勝手に病んでいるだけ。だから、今の龍華をどうにかしてほしいと彼に頼むようなことはやめてほしい、と。


 伝えきったところで、お兄さんは背もたれに寄りかかっていた姿勢をス、と前に戻した。わたしにはわからないフレーバーのハーブティーをひとくち飲んで、喋る準備をする。
 ふふ、と笑った。口を開く。
「君は今、その男の子と恋愛関係にあるわけか」


 頭がかっと熱くなった。なんだか、侮辱されたような気がしたから。
 今の説明を聞いて、彼への謝罪をするでもなく、関係を邪推するのは失礼ではないか。
「そんなんじゃ、ありません」
「そうか、そうか。妹はまんまと食い物にされたわけだ。その彼は、なかなかやり手だね」
「そんな、ひどい! そうじゃなくて」
「だったら、」
 微笑みをかたどられた瞼から、あかい瞳が覗く。
 彼女に似ているはずなのに、何かがどうしても、ちがう。
「恋人をとられた君が、彼をそこまで良く言うのは、おかしいね」


 ……、…………。

 瞬間、黙ってしまった。
 咄嗟に何かを言えそうもないわたしの代わり、お兄さんは簡単そうにつらつらと言葉を並べ立てる。
「君の話しぶりを聞くに、何点か言わない選択をした事実がありそうだね。龍華から聞いていた男の子のステータスを考慮するに、そうだね、龍華が知る由もなく、かつ君の話から弾かれた情報としては」

 彼の狙いは、はじめから君だったのではないかな。

「憶測の域を出ない話だけれどね……おそらく君は体良く手懐けられたんだと思うよ」

 彼から聞いた真実と、お兄さんが言い当てたことが頭の中でぐるぐる巡る。言い当てられたことと、わからないことがわたしの思考を変にする。
「……手懐けられた?」
「君はロマンチストで、何より本当に律儀で一途だ。だから、君を手中に収めるなら、君にアプローチをかけるより、まずは相手を離れさせるほうが効果的なんだよ」
 一途だから、そら、敵だったはずの彼のことも、いちど愛してしまえば、かんたんに庇ってしまうだろ。
「おそらく、その彼は他人の心理操作に余程長けていると思うね。いちど君から妹を引き剥がして、それによって生まれた君の嫌悪さえ、ゲインロス効果を使って上手く絡めとっている。おそらく、大学以降は君のストレスや良心の呵責も上手く使ったんじゃないかな。どう言えばいいかな……そう、最終的には、彼に感じていたストレスそのものが、それだけ彼への罪悪感に繋がるように仕向けたり、とか」
 それで、お兄さんの口は一旦止まった。
 考察は一区切りがついたらしい。わたしの返答を、何度か瞬きして静かに待っている。

 わたし、は、膝の上で拳をぎゅっと握りしめて。
「…………彼がそんな、ひどい計画で、そんなわけ、……」

 …………辻褄が合う。
 思い出されるのは、彼の家に連れ込まれた日のことだ。
 頭のなかが冴えていく。どうしてだろう。どうしてあんなことをされて、平気で彼のためを想えていたのだろう。何を、庇って。
 きゅうに今までの思考回路に悪寒が走って、経験したことのない気持ち悪さが全身を駆け巡った。
 信じたくはない。でも、そうだ、そうだったじゃないか。彼がその口で言っていた。彼女に興味はなかったと。
 そうだ、あの日たしかに恐怖を感じたじゃないか。どうして今まで忘れていたんだろう。

 答え合わせが済んだ顔のわたしを見て、お兄さんは再度話を始める。
「……人の脳というのは、厄介なものでね。自分が楽に過ごせる考え方を真実としてしまう。わからないことというのは、それだけでストレスだからね。ある意味では、防衛本能とも言えるね」
 嫌悪を忘却した後の彼との日々は心地よかった。それはわたしの脳が幸福を求めた結果なのだろう。
 ……吐き気がする。あの日に至るまでの嫌悪が、一気に思い出される。
「彼の本性は、相当なものだと思うよ。早めに縁を切ることをお勧めしよう。そう例えば、手軽に彼氏を作ってしまうとかね」
 それとともに、わたしが思い出さなければならないのは彼の脅迫であった。そうだ、それがあったから、わたしの幸福の錯覚は更に容易いものになった。
 こわいから、こわくないほうへ思い込む。
 わたし、逃げてたんだ。

 わたしの好きな、甘いジュースのグラスにまとわりつく結露が滴り落ちた。
「わたし、どうすれば」
 うわ言みたいに呟く。
 今まで逃避していたすべてが露わになって、迷ってしまう。どうすればいい。わからなくて、ただ口にした。
 そんなわたしの言葉を聞いたお兄さんは、
「君が?」
「……どういう意味ですか?」
 どこか高貴に見下した、不快に思うような、それでいて子どもみたいに拗ねた口調で喋る。
 それなのに、鼻で笑う。
「ここまでお膳立てしても、言い出さないかい。謙虚なのか、それとも鈍感なだけかな」
「なにが……ですか」
「どうして目の前の私を頼らない? 君はいつまでたっても私を手札に入れないね」
 呆れた。そういう態度で、お兄さんはわざとらしくため息をつく。
「こんなに目をかけているのにね」

 ……。ちがう。
 このひとは、わたしの恥に興味があるだけだ。

「からかっているのなら、やめてください。帰りますよ」
「はは。優しいね」
「……」
「普通なら既に帰っているよ。やはり、頼りにはしてくれないが、私にそれなりの気はあるんだろう、君も」

 ……何を言ったところで、このひとの脳みそには敵わない。
 このひとはわたしのことをロマンチストと言うけれど、わたしに言わせればこのひとの方がよっぽどロマンチストだ。こんなに頭のいい人なのに、性の煙霧をその思考で明確にしようとは思わないらしい。
「次は私が君の"道具"になっても、良いよ」


 龍華に招かれて、彼女たちの家に訪れたことは何度かある。
 あの日は、誰も居ないからと、キッチンで。


「……その容姿じゃなきゃ2発は殴ってますよ」
「ン。やっと素で話す気になったか。なら、こちらも単刀直入に言おうかな。君に交際を申し込みたい」
「いやです。覗きなんて趣味持ってる人とは付き合えません」
「君たちが勝手にしてただけだろ。あれは私のキッチンでもあるんだよ」
 ……。だとしても目が合って覗きがバレてから、事が終わるまで覗き続ける必要はない。
「処女じゃないんだ、勿体ぶることもないだろう」
「そういう問題じゃ」
「この容姿がイヤ? 切って染めようか。瞳も潰す?」
「冗談はやめて」
「やってみれば良いよ。なあ、やってみせろとけしかけてくれ。返事はそれだけで良いから」
 ……。セックスしたいからってここまで言い出すものなのだろうか、男性というのは。
 彼とは違い、さっぱりとした分かりやすい性欲で動いていて、拍子抜けする。こんなに頭のいい人なのに、どうしてこうも理論が強引なのか。
 でもなんだか、安心したりもする。このひとは、いつも懇願のついでに調子よくおねだりをする。けして優位に立とうとはしないのだ。
 ちょくちょく説得力のない理論を出してくるのも、そのためだと思う。
「君に男ができれば、さまざまを断る理由にはなるだろ。その男の子が諦めるかはわからないが、ともかく距離は置けるよ。私という恋人への誠意の為に」
「……でも、龍華が」
「なんだ……また妹か。妬けるな」
 知ればそうも言っていられなくなる。
 そう思って彼の脅迫にも似た発言を伝えたが、お兄さんはふうん、とだけ言う。
「で、君の返事は」
 ……。
「聞いてました?」
「君の私への発言を私が聞かないとでも? 理解しているよ」
「それなら、」
「いつまで面倒を見るつもりだい。妹はもう大人のはずだがね」
 自分の肉親の危機なのに、ひどくどうでも良さそうにしている。本当にどうでもいいのか、不機嫌そうに爪でテーブルをつつく。
「君に何の義務があるんだ……まさかまだ未練がある?」
「いえ、違います、でも」
「じゃあもういいだろ。そんなものは他人だよ。他人。余計なお節介を焼く前に、こんなにも尽くしている目の前の男に報いるべきではないかね」
 いつの間にかポケットにしまっていたらしい会計票をこれ見よがしにヒラヒラさせて、それをチラッと見て、顔をしかめた。すぐにポケットに戻してしまう。
「なんだ、こんなものか。今のはなしだ。甲斐性のない男だと思われたら困る」
「……。そんな、自分の分は」
「はあ、もうすこし良いところに連れて行けば良かったね。そうしたら君もときめいたかもしれない」



 このひとは。

 このひとは、自分の肉親をそんなものと言い、4けたのお会計をこんなものと言う。

 ひどいことだと思うし、すごくざんこくだと思う。倫理のないことだと感じる。
 それがそれだけのわたしへ向けられた何かの証左になっていることを、おかしく思うとともに、わたしを肯定する唯一の救いのようにも感じられた。
 ああたぶん、揺れている。
 丸め込まれたら大変なことになる気がするし、丸め込まれて楽になってしまいたい気もする。
「そろそろ、拗ねるよ」
 さっきから拗ねてるくせに。
 頭のいいひとなのに、どうして恋でばかになる。

 ……いや。自分だってそうだったくせに。
 恋とは、間違ってはいないけど、ばかなものか。
 それでいいのか?


 これで承諾すれば、わたしの人生はよっぽどに汚れる。きっと一生恋は出来ないだろう。
 このひととでさえ。
 似たものを経験しても、もはや恋とは言えない。正規の感情から始まるものではないからだ。

「わたし」


 それは、いい。とてもいい。
 もう恋はこりごりだ。

「龍華から貴方にのりかえたほうが、良いですかね」

 汚れたように口元だけで笑った。
 そんな表情を見たのに、彼は満足そうにまばたきをする。
「そうだよ。そうに違いないさ。そうしておきなさい。じゃあ、そういうことだね」
 うんうんと勝手に頷いている。勢いに任せて断らせないつもりだ。
 ちょっとだけ、あきれる。やっぱりへんなひと。


 それでもここで「やっぱりいやだ」と言えば、振り出しに戻してくれるのだろう。


 龍華に抱かれているシーンをがっつり見られて、龍華はそのことを知らないが、その日からお兄さんはわたしにしつこい。
 でも彼のような恐ろしさはない。もちろん始めは何を言われるか気が気でなかったが、蓋を開いてみればただの物分りの良い、変なひと。それにも慣れてしまって、今ではこの調子だ。
 そして、わがままだけれど、わたしのさまざまを尊重するこころがある。
 そう、そうだ。この人みたいに利口にわがままでいられたら、どんなに心地良いだろう。
 ちら、と赤い瞳を見る。
 相変わらず、自信たっぷりに微笑んでいた。
「……。じゃあ、」










 交際承諾のあと、その日のうちに抱かれてしまったわたしは、戸惑いと怒りを感じつつも関係を良好に保っていた。
 本当にその日のうちに抱かれてしまった。あまりに早すぎて、やり捨てされるのかと思った。が、そうではなく、単純に我慢できなかったらしい。もとい、我慢しなくても良くなったから当然に有難くいただいたそうだ。本当に難関大学に通っている人なのだろうか。
 彼は交際を始めてからも過激で熱烈で、付き合って2日で指輪をはめられた。実家から戻った後もおはようとおやすみの電話をしないと気が済まず、終いには遠いから要らないのに、わざわざ一人暮らしの家の合鍵を作って寄越してきた。
 兄妹で似たようなところがあるのかもしれない。……というか若干女々しいところが多い。ふたり揃ってワガママだ。
 当然みたいにこちらを振り回して甘えて、かと思えば気まぐれにべたりと離れがたく甘ったるく甘やかす。カリスマ性にも似たような魅力で、何の計算もなくそれを行ってしまうのだ。……計算というか、まあ思惑はあるのだろうが。
 そういうところにわたしが惹かれてしまうのも事実で、もう吹っ切れてしまったから、素直に好きだと表現することにしている。
「最近は、すこし忙しそうですね」
「うん、好きな人のために、ちょっとね」
「ふふ……そうですか。その人は、きっと喜びますよ」
 ただの土日でさえ熱心に捧げてくる。本来なら研究などで忙しいだろうに、そんな素振りは一切見せず、むしろわたしの拙いレポートにアドバイスをして課題を手伝ってくれることすらある。
 ほぼ毎週のように交通費を使って会いに来るものだから、こちらとしてもそこまでされると申し訳なさを感じてしまう。わたしが彼のもとに毎週通うのも少々無理があるので相談すると「なら君が大学を辞めてこちらに来ればいい」なんて言い出す。

 ……。正直、それら全てがうれしい。彼がわたしにしてくれることひとつひとつを鮮明に覚えている。それについて、その時わたしがどう思ったのかということまで。
 だから求められるままに体をゆるしてしまうし、してほしいと言われたことだって、なんでもしてしまう。
 高校生の頃のわたしが見たら羞恥で卒倒してしまうだろう。指を絡めて、恥ずかしさで目を逸らせば腰の動きでやさしく叱られて、声を漏らせば目ざとく聞きとられて、満足そうに微笑まれる。
「なあ……君はどうしてこんなにかわいい。わかるか? 私の肉を受けて、もっと奥まで解しやすいように愛液を垂らしているよ。とてもあたたかいね。あついね。かわいいよ」
「、っあ、ウン、もっと、……ア」
「……ふふ。うん、すっかり素直になったね。はは……はあ、ああ……ねえ……まだ、いけないかい、子どもを作るのは……。はやく、はやく……君の肌のうらがわにも、私の精液を塗りたくって、やりたい……。ぜんぶの君に……」




 彼なりの言葉と行為でわたしをすべて可愛がり尽くして、たくさんのキスで愛を閉じ込めた。どろどろ溶ける瓶詰めジャムに蓋をするみたいに、そこに永遠を宿す。
 彼はそういう行為が好みのようで、終わる頃にはすっかり溶けたまま彼の腕に抱かれている。限界を迎えるのはいつでもわたしが先。
 なんだか、くやしい。
 くやしくて、ふあんになる。

「……。ねえ」
「なんだい」
「かわいがるのが、上手だけど……。こんなふうに、わたし以外をかわいがったことが、あるの」
「……」
 わたしの背中を抱きしめる彼の胸が、クツクツと可笑しそうに音を立てて揺れた。
「嫉妬かい」
「なに」
「いいや。嬉しいと思ってね。回答としては、これでも君に初めてを捧げた身だよ」
「誰にもかわいいっていったこと、ない、ですか」
「うん」
「……。龍華にも?」
「妹だからね。可愛がった時分もあったと思うが」
「……、……」
「あ、おい……悪かった。嘘だよ……逃げるな……。私を独りにしないでくれ。……フフ、」
「っえ、あん、っ……」
「可愛がったことなんてないさ。生まれてはじめて可愛いと感じたのが君だ。それからも、それだけさ。……」



 あとでびっくりしてしまうような量のキスマークで色づいたわたしの体は、もうすでに彼のものだ。
 今は学生だからと断っているけれど、いつか彼の子どもを身ごもるのだろう。いや、そんなに先の話にもならないのかもしれない。彼は早く自分の元へ来いと、うるさいから。
 からだの裏側まで彼で満たされて、いつかの日、肌に塗りたくられたみたいに、臓器のなかみまでにも精液を慣らされる。そうして、彼の赤子をこの身に受けて、それで……彼にずいぶん変えられてしまったこの乳をやるのだろう、たいそう、母親みたいなしぐさで……。

 母親よりも、女のような気がした。彼の、女。

 恋がなく、そういう未来のような気もして、背中がぞわりとふるえたけれど、これがわたしの選んだ不道徳だ。心地よい、不道徳……。









 ――――ねえ、聞いた? あの子







「将来のことを考えるとやはり手狭だね。君は一軒家とマンション、どちらが好きかな」
 およそ学生が持つべきではない額をかんたんに動かしてわたしの生活を整えた彼は、しまいには物件を買ってしまおうだの何だの、およそ冗談にしか聞こえないようなことまで言い出す。
「なに、気に病むことじゃない。学生結婚なんて昔は当たり前だった」
 うしろから抱きしめて、すりすりとおなかをさすってくる。それだけで、自分の不道徳による将来の不安というものはすべてかき消されてしまうのだった。

 親の反対を押し切って、半ば駆け落ちのように家を出た。大学は言わずもがな中退、親不孝者と言って差し支えない。
 そんな憂いなどお見通しで、かつ些細なことと認めた彼は、わたしについての一切の所有権と責任とを不安ごとすべて力強く奪い取ってしまった。
「私が卒業したら、君の好きな物件を購入しよう。それまではすこし窮屈だろうけど、私にとってはそれが褒美でもあるからね。少しの間、我慢してくれるかい」
「そんな、もちろんです。自分の部屋があるだけで充分……というか、それ以上です」
「……本当はもっと狭い物件にしてしまって、いつも君と同じ空間に居たいけれどね。ふふ、だらしないところを見られたら、流石に嫌われてしまいそうだ」

 今さら貴方を嫌うだなんて。

 わたしにはもうそんな選択肢がない。それなのに龍彦さんはいつでもわたしに弱いそぶりを見せる。囲われているようなものなのに、貴方はわたしの持ち主のようなものなのに。
 それが不快ではなく、うれしいと感じてしまうわたしはひどく身分不相応だと思う。

 急遽始まった新しい生活ではあるが、戸惑っている暇もなく、ただ彼の手によって幸せにされた。毎日、朝と夜、電話の代わりに目を合わせてキスをして、抱きしめたり、抱きしめられたりする。性行為は挿入を伴わない程度に行って、それでも物足りなさなんて到底覚えないほどに甘やかされる。
 龍彦さんがわたしのために購入した家具たちを見るたび、はじめはすこしの申し訳なさを感じていた。けれど、わたしと過ごす龍彦さんがあまりにも幸せそうにしてくれるものだから、本当に身勝手な話だけれど、ある意味では対等に成り立っている需要と供給なのだと安心できる。
「……何、ベッド? 買わない。要らないだろう。……なんだい、一緒に寝たくないとでも言うのかね」
 ……ベッドを購入することだけは頑なに許してくれなかったけれど。









 ――――ほんとショック。まさか、あの子を追いかけてたりとか?







 数ヶ月経って、龍彦さんは院を卒業した。
 その頃にはわたしのお腹も膨らみを帯びて、悪阻のいちばん酷い時も無事に済んでいた。

 卒業した龍彦さんは、すぐに就職することはしなかった。聞くに、妊娠中のわたしをひとりにしたくないらしい。……それが主な理由ではあるだろうが、多分、実はもう働かなくても暮らせるほどには何らかの方法で金銭を所持しているのだろう。定職には就いていないものの、家にいる時にたまにパソコンで何やら難しそうなものを打っているところなどは見かけるので、そういった分野で何かしらしているのだと思う。
「今日はどうしようか。すこし外に出て歩く? 天気は1日良いみたいだから、買い物でもするかい」
「うん……行きたいな。久しぶりに料理したいかも」
「! それは良いことを聞いた。是非行こう。何でも買おう」


 手を繋いで、近所のスーパーまで歩いた。商品を眺めながらたわいのない話をして、龍彦さんのちょっとした、君の作ったあれが食べたい、これが食べたいというようなかわいいお願いをたくさん聞いた。
 つい、笑ってしまう。
「もう。テーブルいっぱいになっちゃう」
「嬉しくて、つい、ね。……でもやはり選べない。ぜんぶじゃだめかい。私も手伝うから……」
 明確にわざとらしくはあるけれど、しゅんとして甘えてくる姿は本当にかわいらしい。仕方がないので、叶えてあげることにする。
 いっぱいになったお買い物バックは龍彦さんの無言の圧でわたしの手元から離れ、龍彦さんの腕に収まった。






 夜、龍彦さんの好きな料理でいっぱいになった食卓を囲んだ。
 綺麗に食べてくれたお皿を見て、とても嬉しくなる。普段はきっちりひとり分しか食べない龍彦さんだけど、今日は好きなだけよそって、好きなだけ食べ尽くしてくれた。
 手元をあわあわにしながらお皿を洗う。龍彦さんは自分がやると言ってくれたけれど、今日はなんだかわたしがやりたい気分だったのだ。だって、好きなひとのお世話をできるのは、うれしい。そんなこと言ったって、こんなことしかできないけれど。
 ごはんが終わったら、お風呂に入って、ふたりでお布団を被る。たわいのない話をして、滑らかに1日が終えられていく。

 この幸福のために捨てたものは、多くある。

 愛するひとの横顔、その眠った瞼を見つめながら、そんなことを思った。もう会うことのない両親、昔愛した人、平穏な学生時代、そこで得るはずだった知識。
 でもそれらのすべてが今には変え難いものだ。心からそう感じる。はじめは戸惑ったけど、でも、彼の大きな力によって強引に、それでも丁寧に整えられてしまっては、不幸など感じる隙はないのかもしれない。色々と流されやすい性格という自覚はあるけれど、それで良かったと感じている。
 子どもが生まれる頃には、親も、学友も、何もかも、龍彦さん以外の顔を忘れ去ってしまうだろう。なんだかそれが楽しみだ。