浅夢


リクエスト②:道端に帰路を置くの澁澤エンドでドストエフスキー視点の続編






 彼女を適切に表現するため文字通り言葉を尽くした。ぼくの頭の中にある億単位以上もの言葉、その端のささやかなニュアンス、その歪みと相乗効果、些細な違いと余韻までを試した。
 ぼくの彼女の文書は既に数百冊に及ぶ。
 彼女を写真に収めるより深く、絵に宿すより近く畫いた。脳でなぞる道しるべのようにした。何故なら、写真より絵より像よりだって、ぼくの記憶による脳の動きが最も彼女を呼び起こす。
 ぼくの部屋に本棚はない。




 彼女がぼくの前から消えてしまってから、ぼくは毎日彼女の幸福な日々を願った。幸せになりますように、幸せになりますようにと。
 彼女が明らかに不幸であることは知っていた。日々彼女の苦しみを考えれば考えるほどに祈りは強くなる。ある日たまらなくなって彼女の元を訪れた。
「ぁ……あ、え? ……?」
 久しぶりに目が合った彼女は……健康そうではある。大学の頃より、心做しか元気がないくらいだろうか。いや、顔色がやはり良くないと思う。
 新しい命のために仕方のないことではあるが、抱きしめたいほどに弱々しかった。
 この特別な行為について、前から今日と決めていたが、やはり彼女のことを想えばもっと早く来るべきだったか。
 抱きしめる動作を始める。
 けど止まった。ぼくが止めた。
 愛される者が異なるだけで、人生は大きく揺れる。本日はそのことについて、色々と許可を得たかった。
「お久しぶりです、なまえさん」
「あ、えっ……、……」
 ……狼狽える彼女は、相変わらず可愛い。再会の記念にキスのひとつくらいしたって良いのかもしれないが、ぼくはそうしてはいけない。まだそのような立場ではないからだ。
 でも、名前くらいは呼んでほしかった。また彼女の可愛い声で呼ばれたぼくの名前で、ぼくを嬉しくしてほしいのに。

 なまえはお腹の膨らみに手を当てながら後退して、ぼくを家の中へ迎えてくださった。
 ぼくがお邪魔しますと言って靴を脱ぐと、なまえはサンダルを脱ぐのもひとりでは一苦労なようだったから、手伝った。丁寧に支えて、丁寧に脱がせて、それから歩行の補助もした。やはり体が重いのか、一歩一歩の足取りが、ひどく重い。そして手は氷のように冷たかった。心配になる。
 ぼくが買ったわけではないソファに、座らせる。
 隣に失礼して、彼女の冷たい指を手のひらで包み込んで揉みこんだ。妊娠中の冷えは大敵だ。彼女のホルモンバランスの乱れを直接この身で感じることができたのは嬉しいことだが、せっかく収まった悪阻の再発に繋がりかねない。彼女が苦しむのはぼくの本意ではない。
「ああ、そうだ……キッチンをお借りしても、良いですか? 実は、美味しい茶葉をお土産に持ってきたんです」
 しばらく自分なりに頑張ったつもりだが……やはり、ぼくの指ではあまり効果は得られない。ので、温かい紅茶を振る舞うことにした。
 棚から彼女のマグカップを出して、なるべく手際よく準備する。
「あまり口出しすることではないですが、ごはんは普段通り食べられていますか? 何か持ってこようかとも思ったんですが、突然お邪魔しましたし、そこまでは迷惑かなと思って」
 なまえさんのキッチンはとても綺麗に整えられている。妊娠中でも細かな箇所まで掃除を欠かさない彼女の努力によるものだ。今では落ち着いたようだが、彼女の悪阻には時間によってかなり波があって、いちばんマシな朝の9時頃に運動がてら軽く掃除をしてくださる。
 とても健気で、やはりどうあっても好ましく思う、彼女のことは。
 迷惑、とは言ったが、そういう彼女に何かして差し上げたいと思うのも至極当然のことで。
 棚にこっそりと、彼女の好きな焼き菓子を置いた。気づいた時に、なんとなく食べてくれれば良い。それがぼくからのものだなんて、気づかれなくったって構わないのだ。
 温かい湯気が舞う。彼女の紅茶に、やさしい甘みのシロップを溶かした。なるべく添加物のないもの。
 彼女のもとにもこの香りが届いて、すこし気にしてくれているだろうか。
 口に合うといい。きっと大丈夫。飲んで、すこしでも彼女の冷えに効くといい。
 そう願いながらマグカップを運ぶと、彼女はソファから移動し、何処かに電話をかけようとしていた。縮こまって受話器を掴んで、ダイヤルボタンを押そうとした指を彷徨わせ、ぼくを見ている。
 突然お邪魔したのはぼくなのだから、そんなに気を遣わなくていいのに。
「お電話ですか? 何か、大事な御用でしょうか」
 とはいえ、来客の時に電話しようとするなんて彼女らしくない。何か特別な用だろうか。では何か、期限のついた申請とか。
「どこにかけるんですか。お調べしましょうか」
「あ、あ……」
「調べればすぐに分かりますよ」
 何か手伝えることがあればと思い質問してみると、彼女は慌てたのか、受話器をかたんと床に落とす。
 しゃがむのは、大変だろう。
「ああ、拾いますよ。無理をしないで」
 テーブルにマグカップを置いて急いで彼女のもとに駆ける。受話器を戻して、これから大事な話をするから、コードを抜いて彼女とともにソファに戻った。
「それで、今日何故お邪魔したかと言うと、つまり婚姻とは色々な意味をもつものだと言うことです。だからこそ、重要で、無闇にするものではないと咎めることも考えたのですが、でもぼくの考えとしては、だからこそ重要ではないかもしれない、ということです。どちらにせよ、貴女を尊重したいというぼくのスタンスは変わらないのですが。そう、貴女のためを思うなら……」

 子を成す行為も、同じだ。種として人間たるぼくは子孫を残さなければならないが、ぼくは特に子孫が欲しい子が欲しいと考えたことはない。ぼくは世に興味を持つことをさほど考えたことがなく、そうでなければ、ぼくの理想とするならばこの世は大きく変わってしまうだろう。それも良いのかもしれないが、それを目指すという行為に特段動機がない。
 ならば、ぼくが考えるのは彼女のこと、それも限定的に言うとすれば彼女とぼくのこと、だ。
 ぼくたちを分かつこの現状が、どうしてこのようになっているか考えるとすると、彼女の考えをよく分かっていなかったぼくの落ち度ということ。
 彼女は、特別なものを特別と扱う傾向にあると思っていたが。
 けれど、かんたんな話だ、彼女にとって婚姻は特段のものではなかった。
 予定としては、卒業を待って、丁寧に準備をして特別に執り行うつもりだったが、彼女がそのつもりのないのなら、彼女のために、ぼくも彼女に合わせようと思う。
「すり合わせは先にしておくべきかなと。なまえさん、なまえさんは、番は同時期に複数欲しいですか? それとも、取り替えっこですか?」
 彼女がそうしたいなら、さまざまを経験していただいて良い。渡り歩いて、味見をして、彼女が彼女の庭をつくっていく。
 そのためなら、飽きたら次を連れてくることだって。彼女を手伝う。そのためにぼくがいて。常にそばにいる。
 そう、すべてに飽きたら、見つけてくれれば良いのだ。傍らのぼくに。気がついて、戻ってきてくれれば良いのだ。
 それまで、ぼくは例外的にずっと傍に置いてくだされば、それで。
 詳細を聞いて、分かりましたと承知して……ひとまずは彼女の意思を優先しようと思う。集めて、精査して、彼女が選びたいと言うなら選ばせてさしあげて……でも、それでわかってくれると思う。わかってほしい。最後にはぼくだけで満たされるということを。
 ぼくは、今の彼女の希望通りにしようと思う。
 が……ぼくも男なので、すこしだけぼくの理想通りになるように考えるくらいは許してほしい。
 媚びを売るのは、好きだ。ぼくがまるで彼女の欲の一部に成っているようで。
「ね、なまえさん。特徴とか……どうでしょう。あの男を見るに、今の趣味は長髪ですか? そう仮定して、今の男に似た何人かの候補は既に見繕っているのですが」
 他の可能性は、どうだろう。ぼくとあの男を比べて、知能は高いほうが良いのは確かだ。あとは、身体的特徴等。……


 白髪に紅瞳。

 ちがう。
 ぼくはそうでないから、絶対条件ではない。あれは、たまたまだ。どちらも知能が、高かったから。
 それとも色、愚か、いろいろなものを集めたいのだろうか。集めたいなら、同時期だろうか。そこにぼくは居ても良い? それなら先程我慢した分、抱きしめたいのだが。
 そのあたりは分からないから、本日聞いてみることにした。
「ね、どうでしょう。言ってくだされば、ご随意のままにできますよ。遠慮は要りません。お戯れの間、ぼくは小間使いと考えていただいて構いません。……その代わり……なのですが、その。他に飽きても、連れてきますから。ぼくだけは常に、傍に置いていただけませんでしょうか」
 なまえさんの腿に、今ではすこし出過ぎたことだが手を添えて撫で、耳元で囁く。
 頻度を見るに、意外にも色を好むようだから、ぼくも積極的にこういった誘惑は見せていこうと思う。
「……ぼくの気持ちには、きっとお気づきでしょう……?」
 ぼくの価値は、彼女の欲望の中にこそある。
 まずはそこからだ。ぼくの欲を満たすより前に、まずは彼女の欲に寄り添うこと。
 彼女は、不幸のために欲を動かすのだ。きっと、出会ったときから、そうだったのだろう。
 ひとりでは寂しく、愛した者はひとりでは足りず、愛する者を幾つも求めては破綻する。ただ過去を増やし、愛した事柄を増やす。
 彼女の愛の総量は、そんなことをしても変わらないのに。
 彼女の人生の本質は、そういう性に苦しんでいる。その証拠があの友人と、あの男なのだ。
 あの男は、あとどれくらいだろう。それまでに次を用意するのは、ぼくの仕事にしたい。
 ……学生の頃は、それに気付かない幼稚なぼくが彼女に甘えて、自分を優先してしまったから。会えないような、見ているだけのすれ違いの日々になってしまったけれど。
 今はそんな真似はしない。必ずぼくが彼女を幸せにしてみせる。前とは違う、今のぼくにはそれができる。
 彼女を正しく理解しているから。
「ね、なまえさん……」
 彼女は何も示さないで、しかしぼくを払い除けるなどの拒絶する仕草は見せなかった。押しが弱いだろうか。

 それなら、この場で少し手を出すべきだろうか。
 そういった、ぼくの価値をここで見せる。

 …………。
 知識は人並みにはあるが、その分野におけるなまえさんの傾向は実際にしてみなければ分からない。見て分かる範囲は掴めているが、変に急げば落胆させてしまうだろうか。
「……ひとまずお返事は……悪くない、で良いでしょうか。ああいえ、それだけでも十分です。ゆっくりお考えになってくださいね」
 ぼくの試し行為をする流れは、もう少し気弱く乞う場面が良い。やめにする。
 今日は……今日は、なまえさんと久しぶりに直接言笑できたという、確かな幸福がある。それが、嬉しい。
なまえさんがどんな選択をしても大丈夫なように、ぼくが全て準備しておきましょう。ええ、お好きなように。貴女のことは全て理解できます。貴女が何をしようと、ずっと傍に居ますから」
 たとえ、なまえさんが世界を敵に回しても――なんて、すこしドラマチックすぎるだろうか。
 でもぼくの愛とはそのようなものだ。だからゆるす。なまえさんの好きなようにと。それをいつまでも追いかけることができる。……ほんの少しだけ、軌道修正してしまうかもしれないが。



 また来ますと伝えて、自分と部屋を整えてから玄関を後にした。

 実際に見てもなかなか良い家だと思うから、住居に手を加える必要はない。身重でも住みやすいよう、怪我のないようになっている。なかなかよくわかっているではないか。心配は少ない方が、良い。やはりなまえさんが他を望んだとしても、知能と甲斐性を兼ね備えた者だけをそれとなく差し出したほうが良いだろう。
 あの男に飽きるのは、きっとそろそろだろうから、今日はこのまま新たなものたちを用意しにいくことにした。この、なまえさんと親しくできた幸福を噛みしめながら。
 そうすればいつもより更に、なまえさんにとって良い行いができそうだ。