おやすみハニー


焦燥
焦燥、焦燥



 大丈夫、平気だ、なんてことはない。私が直ぐに………………、……、






Q.彼が過保護になったのはいつからですか?

 とある友人にそんなことを訊ねられた。
 ……すこし考えて、そういえば昔はこんなんじゃなかった気がする、と思い直した。先程まで世間話のひとつとして恋人が過保護で困る、やれひとりで外に出るなだのやれ危ないから料理をするなだのうるさい、と愚痴をこぼしていたのだ。
 前はそうではなかった。わたしが適当に作った料理を彼は何も言わず食べていた。たまに火傷したって、保冷剤をぽいと寄越してきてそれで終わりだったのに。
「うーん、ここ数年かな。そういえば慣れちゃったからなんとも思ってなかった」
なまえさんらしいですね。聞き分けが良いというか、能天気というか」
「あはー。まあ実際不自由してないから!」
 今日はやけにご機嫌なジョークを言うなあ、と思った。彼、ドストエフスキーくんはわたしを貶すようなことは普段冗談でも言わないのに。
 なんだか気を引きたい子どもみたいでかわいくて、それで、何かあげたいと思った。
 そうだ、龍彦に内緒で戸棚に隠してたクッキー、だしちゃおう。こっそり通販で買ったヤツ。そういうわけで、時間指定の配達には随分助けられている。
「ねーねードストエフスキーくん」
「何でしょう」
「ええとね、……じゃーん! クッキー! これすっごい甘くて美味しいの。食べよ食べよ」
「良いんですか? 澁澤君に怒られますよ」
「いーのいーの。ナイショだから」
 龍彦はわたしが必要以上に食べることをとても嫌がる。毎日の食事だって龍彦監修だ。
 几帳面なひと。っていうか、やっぱり過保護。
「やだよねー口うるさくて。お母さんじゃないんだから。この前なんてお母さんって呼んだら頭はたかれたよ。過保護なくせにすぐ手でる!」
「どうして過保護になったと思います?」
 クッキーのカンカンをぱかりと開けた。クッキーいっぱい、しましまのやつ、ぐるぐるのやつ、ジャムのやつ。
 やけに訊いてくる。子どもみたいでやっぱりかわいい。クッキーをからっぽのお皿に乗せながら、……これはドストエフスキーくんが好きそうだから多めにあげよう、言われた通りに過保護の理由を考えてみた。考えるのには甘いものがひつようだ。さくさく食べる。わたしは食べ方が汚いから、クッキーのかけらがぼろぼろと零れていく。さくさくさく。
 クッキーはしっとりよりサクサクのが好き。
「わたしの大切さにやっと気づいたからとか?」

 にゃは、とふざけてみせる。
 ドストエフスキーくんはただ微笑んでいた。





「これは何だ」
 正座をさせられている。目の前には龍彦、立ってわたしを見下ろしている。
 右手にはクッキーのカンカン。
「……クッキーのカンカン!」
「そういうことを訊いているのではない」
 カンカンがわたしの頭でぽんぽん跳ねる。フチの出っ張った部分が当たって地味に痛い。わざと端っこで叩いてる!
「くっ、クッキーっ、ドストエフスキーくんがたべた!」
「……ほう。フョードル君が」
「ウン!」
「この大きなクッキー缶を」
「……ウン」
「すべて空にすると」
「………………ウン…………」

 ぽゆん。
 カンカンとわたしの頭が大きく鳴った。

「……ごめんなさあい…………」
 観念してしおしおとすると龍彦は、……はあ、と呆れたような溜息をつく。
「何がごめんなさいなんだ」
「うそついてごめんなさい」
「それだけか」
「かくしごとしててごめんなさあい……」
「宜しい」
「んむにー」
 さいごに、頬をむにーとされた。仕方ないな、と龍彦が頬をゆるめる。
「これは仕置だ」
 これでチャラらしい。龍彦は叱るのをやめて、わたしをだっこした。正座してシビシビになっていたわたしの足を労わってくれているのだと思う。
「うわー龍彦ちからもちだ」
 龍彦はすこし黙ってから、わたしが軽いからだとちょっと嬉しいことを言ってくれる。
「軽いんだ きみは」
「えー! うれしいこと言う! ……待てよ……閃いた」
「閃くな」
「軽いなら食べてもよくない?」
「良くない」
「だーめかーあ」
「今日食べた分はしっかり消費しようね」
「夜のおさんぽ!」
「朝」
「イィーーーッヤ! 早起きイヤーッ」






 起きてくれ 頼むから




 揺り起こされたのはお昼を過ぎた頃だった。朝の散歩に連れていかれると思っていたけど、結局起こさないでいてくれたらしい。
 それにしても随分寝坊をしてしまった。ぜったい、おこられる。
「たつひこおはよお」
「…………どこがどう早いんだ」
「……おそよう!」
「言い換えろとは言っていない」
 ぺしんとおでこを叩かれた。それから布団もみるみるうちに剥がされる。
 龍彦に引っ張られてリビングに向かう。すると、すっかり冷めた朝ごはんのようなものがテーブルにごろごろ転がっていた。
 あれ。

「あれ?」
 龍彦を見る。
「片付けないとな」
 この前、龍彦が夕焼けにつけれいってくれた。海の写真をいくつかとった。
「すてちゃうの?」
「食べるわけにもいかないだろう」
 たつひこ。たつひこ?
「おいで。そのしっちゃかめっちゃかな髪をなんとかしよう」
「どろ……どろ……」
「何処?」
 うん。
「おいで」








 彼の心中は誰にも察せない。


「いつまで続けるおつもりですか」


 蒼い結晶。
 ドラコニア・ルームの中心部、その祭壇に飾られるはずだった生命の輝き。少年の生きる力。
 それが今はどうだろう、ただの生命維持装置。

「黙れ 何も言うな 黙れ…………」
「そろそろ限界も近いようですよ。彼女、咀嚼だけで摂取をし損ねていました。もはや物理的法則もあやふやです」
 やめろ。
「……誤解のないよう言っておきますが、ぼくも見つかってほしいと願っています。ぼくも彼女には好感を抱いていますから」
「    きみは わかってない」
「……お手伝いは引き続きしましょう。ぼくの責任でもありますから。……ですが、あれは万能器ではない。それに、無いものを見つけることはぼくには出来ませんので」

 覚悟はしておいた方が良い。
 …………言いたいことはそれだけです。

 アメシストいろのひとみは祈ることをした。彼にはただそれだけであった。こんもり盛られたクッキーが、うれしかった。














 我々の人生の中でただひとつあの日が消えてしまえば良い。あの日だけが、我々の因果から取り外れてしまえば良い。

 彼女はきっと、ゆるす。私の今の感情も、方法も、フョードル君が私にあの情報を与えた本当の意図でさえ。
 この今を止めて、自分のことはもういいからとすら言わないだろう。

 それが、いやだ。





 あの日の彼女はいつもより聞かん坊だった。いつも通り留守番していろと言ってもわたしの手を離さなかった。
「今日ビックリするくらいとんこつラーメン食べたいの! 龍彦の用事終わったらそのままつれてってえ」
 そんな、馬鹿みたいな理由だった。
 ばかみたいにへらへら笑って(実際彼女は物凄く馬鹿だ)、即興で作ったのであろうとんこつラーメンの歌をばかみたいに歌う。彼女の手が私の手をそれぞれ掴んで、歌いながら踊る。
 振り払って頭を叩いた。
「痛! なんでよー龍彦も踊ろうよー」
「嫌だ」
「じゃあ食べに行くのはいいでしょ!! とんこつラーメン踊るのと食べるのとどっちがいいの!!」
「そもそもとんこつラーメンは踊るものではない」
「じゃあ食べるでけっていね! ばりかたばりかた!」
「…………。邪魔だけはするなよ」


 彼女を連れて行きたくはなかった。
 けれど見せたい気はしたのだ。

 彼女は私の全てを認めた。受け入れるというくらいのものではなかったが、だからこそ見せたかった。
 私は彼女をひどくぞんざいに扱うが、それは努めてのことだった。それでも私といることの確認だった。

 だからその日も、確認したかった。
 私が子どもに手をかけても、彼女は私と共に在るのか。

 孤児院で彼女は実に大人しくしていた。私の行為ひとつひとつをじっと見ていた。
 まるで、見守るように。

 …………では…………いや、そんなはずはない。それはただの私の願望だ。彼女は馬鹿だから、……ああ、しかしその分勘は良かった、かも、しれない……そんなはずは…………、……。











「うわああああ…………うわあああ…………」
「うるさい」
「だっ、だってえ……うわあああ……」

 なんてことだ。
 この歳にしておねしょをしてしまった。
 しかも後処理は何故か龍彦がやっているらしい。申し訳なさすぎるから自分でやると言っても率先して片付けてくれる。思いやりなのかもしれないけど、恥ずかしさが増す!
「恥ずかしいよお」
「恥ずかしがることではないさ」
「えっ、や、やさしい」
「知能年齢的には適正だろうから」
「やさしくない!!」
 うぎゃーとお風呂で叫ぶ。脱衣場ではきっと龍彦がお布団を水洗い、からの洗濯機に入れてくれているのだろう。
 ある時、パシャ、と音がした。写真のシャッター音だ。
「……え?」
「どうした」
「いっ、いま写真とったよね、なんで!?」
「……君のおねしょをフョードル君に言う」
「やめてーーーーーーー!!!!!」
 パシャ、パシャ、パシャ、何度もなんども。
「うわーんしばらく言うこと聞いていい子にするからやめてえ!」
 パシャ、パシャ、パシャ、パシャ。そんなに撮る?
 あれ? あっちがう、水の音だ。みずがパシャパシャしてるんだ。音、けっこうちがうのになんで勘違いしたんだろ。
 そうだ、洗ってくれてるんだ。
 なんだ、じゃあさっきのは冗談か。お風呂のドアを開ける。
 お風呂から出る。歩くと音がする。パシャパシャねりねり練り歩く。血溜まりのなか。どうしてかパシャパシャの血を出したわたしがそこで倒れていて、わたしは不思議になる。変な光景。

 変なんだよね?






 あれ。



 なんでだろう。
 龍彦が泣いてるきがする。

 頭も足も、あの付くものはふわふわするけど、いかなくちゃ。










 最近龍彦はあんまりごはんを食べない。だからわたしも合わせてあんまり食べないけれど、さすがに龍彦が心配になってきた。だって、みるみるやつれている。元々細いのに。
「ねえ龍彦、これならたべられそうってものある? 買ってきてあげるから」
 そう言ってテーブルに突っ伏している龍彦の肩を揺すると、手首を掴まれた。
「行くな…………」
 細くて長いゆびがわたしに食い込む。ちょっと、いたい。
 本当にどうしたんだろう。いつもよりさびしんぼで、覇気がまるでない。髪もぼさぼさ。身だしなみ、結構気にする人なのに。
「でも……」
「いてくれ」
「うーん甘えんぼも重症だ」
 手首に絡みついた龍彦の指を、もう一方の手でよしよしと撫でる。
 でもこのままじゃ、まずいよなあ。
 どうしたらごはんを食べてくれるのか考えた。龍彦の好きなたけのこごはんなら? と思ったけど、それも食べなかったし。ゼリーとかの食べやすいものとか。でもおうちにないしなあ。
 考えて、考えて、でもやっぱり浮かばない。
「……ねー龍彦、なにかヤなことあった?」
 だからやっぱり、龍彦に話しかけるしかできない。
 龍彦のおへんじはない。けれど何となく、本当に放っておいてほしいわけじゃないような気がしたから、話しかけつづける。
「なんでもお話ししてほしいなあ、やなことはね、だれかにこしょこしょ打ち明けちゃって、そのあとにおいしいもの食べるのがいちばんだよ!」
 だから、なにかたべようよ。
 丸くなっている龍彦のせなかに、いたずらみたいにのしかかる。それでおなかに腕をのばして、ぎゅっとする。
 細いけど、あったかい。心臓がトクトクいってる。
 あったかい。とろとろ、とろとろ、まるで何かを溶かしているみたい。ねむるみたい。キャラメルよりあったかい。
 龍彦はあったかいねえ。当たり前のことがうれしくて、くすくす笑って囁く。おばあちゃんみたいな言い方になっちゃった。それでまたおかしくて、笑う。ひとりで勝手にたのしんでる。相変わらず龍彦は何にもおへんじしてくれないけど、ちゃんときいてくれてることを知っている。だからさびしくない。ふたりでいる。




 しばらくそうしていた。
 龍彦がイヤがらなかったから。


「君の作ったものが、食べたい」

 ふとした瞬間。
 龍彦の背中が膨らんで、そう言って、しぼんだ。
 龍彦の手から、力が抜ける。

「…………………………え!!」
 あまりのことにビックリしてしまった。今の今まで、禁止されてたのに!
 珍しく龍彦がわたしの料理をご所望のようだ。久しぶりに甘えてもらえてうれしい。
「わっわかった! すぐつくるね! まかせてねっ」
 即座に冷蔵庫に飛びついて中身を見る。かろうじて卵はあった。からし……わさび……しょうが……マヨネーズにバター……肉と野菜はゼンメツ!
 今から通販で買っても届くまで2時間はかかる。せっかく何か食べたいと言ってくれた龍彦を待たせることはなるべくしたくない。冷蔵庫だけでなく戸棚もくまなく探して回る。
 そうして、見つけた。
「…………ホットケーキ、ミックス……!」
 前に駄々をこねて龍彦に買ってもらったホットケーキミックスの、さいごのひと袋が残っていた。
 また冷蔵庫を再確認する。卵、マヨネーズ、バター!
 牛乳やヨーグルトはないからお水で作るしかないけど、マヨネーズがあればすこしはふっくらするだろう。ハチミツはないけど砂糖がある。疲れている龍彦に、甘いものはちょうどいい!
 急いでボウルを探す。食器棚を開けてガサゴソするけど、なかなか見つからない。龍彦とお揃いのマグカップが目に留まったから、出しておく。龍彦のすきな紅茶も淹れてあげよう。
 ボウルは見つからない。いそげいそげ。旅行に行った時にろくろ回し体験をして一緒に作った、キレイなお皿をどかす。あの日はへんなかたちばっかり作って龍彦に怒られた。というかこれは最終的に何から何まで龍彦がかたどったヤツだから一緒に作ったわけではないかもしれない。なんにも触らせてくれなかった。仕方がないからろくろを回す龍彦をつっつき回した。
「たつひこーボウルないよーどこー」
 ……げんきのない龍彦の力を借りるのは気が引けたけれど、見つからなければ元も子もない。申し訳なく思いつつも仕方なく龍彦を呼ぶと、龍彦の立ち上がる音がした。床を踏む音、椅子をどかす音、足音。

 すきな人の足音が、ちかづいてくる。

 なんだかドキドキとして、うれしくなった。だいすき。早くきてきて。……姿が見えて、もっとうれしくなった!
 龍彦は上の戸棚を開いて、背伸びもせずにひょいとボウルをだしてくれた。
「ん」
「うわーっありがとう! ごめんね座ってていいからね! すぐ作るからね!」
 リビングへと促そうと押し出した手を、やさしく解かれる。
「ここにいる」
「ええ? たつひこ立ちんぼになっちゃうよ。立ちんぼひこになっちゃうよ」
「君が料理しているところを、見てる」
 出た! 過保護!
 もーカンタンだからへんなことしないよーと反論しながら粉の袋を開けてボウルにいれる。たまごこんこん、かちゃ。たまごが粉に落ちる感覚、おもしろい。だから粉ものにはお水より先にたまごを入れちゃう。
 それからお水を入れて、マヨネーズをちょっと入れて、かしゃかしゃでかしゃかしゃ混ぜる。このかしゃかしゃの正式名称ってなんだろう?
「たつひこ」
 これの正式名称なに! とかしゃかしゃを差し出すと、龍彦はまどろんだ瞳で答えた。
 ねむいのかな。
「泡立て器、ホイッパー」
 ああー!! きいたことある!! そういえばそうだった。ありがとう「たつひこ」!

「うん」

 龍彦はなんでも知ってるから、なんでも聞いてしまう。くだらないことでも、なんでも。いつでも答えてくれるわけじゃないけど、それでもなんでも答えてくれる。やさしいから、わたしも龍彦にやさしくしたい。やさしいホットケーキをつくろう。やさしいホットケーキってなんだ?

 よっぽど何かしでかすと思っているのか、龍彦はわたしをじっと見つめていた。監視しているようだけど、実は見守ってくれてるってやっぱりわかる。かしゃかしゃ……泡立て器で混ぜ終えたら、フライパンをコンロに置いて火をつける。
「油を、敷きすぎないようにね」
 わかったあ。
 おへんじして、言われた通り控えめに注ぐ。フライパンをくるくるして油を広げて、タネを投入!
 ねえ「たつひ 」。
「何だい」
 今日はリンゴなかったからできなかったけど、ホットケーキの下にお砂糖で煮たスライスリンゴ敷いてもおいしかったよね。……「うん」こんどまたつくってあげる。それとイチゴジャムもつくろうよ。リンゴの皮を色付けにつかうの。ぜんぶ使って、いっぱいたべようね。



 龍彦の、ふふ、と笑う音だけが聞こえた。
 食いしん坊って思われた? 今更かな。とにかく、ちょっと元気になったみたい。よかった。
 片面焼いて、ひっくりかえして、ぽふん。いいかんじ。……いちまいめができた! けっこうキレイにできたよ。この調子だと3枚くらい焼けそうだね。いちまいははんぶんずっこする? ウソだよ。ぜんぶ「たつひこ」のために焼いたから、「たつひこ」がたべていいよ。
 そう言ったあたりで、うしろからだきしめてくれた。
 一瞬きょとんとしちゃったけど、あんまり過度に反応しないほうがいいかなと思った。ちょっと振り返って、龍彦の手に自分のそれを重ねる。
 もうちょっとでできるよ。もうすこしまてる?
 龍彦の吐息がきこえる。しずかに吸って、やわらかに吐いている。龍彦の手をすりすり撫でる。
 ちょっとあぶないけど、そうしててもだいじょうぶだよ。慎重に焼くね。
 また火をつけて、2枚目を焼く。2枚目はいちまいめよりももっとキレイにつくりたいな。いちまいめっていちばん失敗しやすいから。3枚のうち、いちばん失敗したやつは真ん中に挟んじゃおうね。ひひ……。
 ひっくりかえすと、にまいめの片面も良好でうれしくなった。たのしくなってきてしまって、ホットケーキのうたをうたう。歌いながら、フンフンと横に揺れるちょっとしたダンスを踊る。背中には龍彦がいるから、リズムをとるだけ。

 ふん、ふん、ほっとけーき、ほっとなけーきだ、これけーきなのか? ほっとけーき き き 木村 木村ってだれ 木村も食べにきたよ ほっとけーき

 歌っていると、龍彦が横揺れに合わせてわたしの脇腹をとんとんと指で叩きはじめた。…………今日はノってくれてる! こんなことはじめてだ!
 うれしくなって2番も3番も歌う。2番はホットケーキがあるならコールドケーキは? 空とぶクジラのおやつだよと歌って、3番はわたしのホットケーキを食べた龍彦が美味しすぎて月まで跳んでっちゃったから、わたしが宇宙飛行士になって迎えに行く歌。
 おかげでいちばんキレイになるハズのさんまいめのホットケーキはちょっとコゲてしまった。挟んで証拠隠滅だ。

 できあがったホットケーキをお皿に重ねて、龍彦の手をやさしく剥がした。でも離さないで、そのまま手を引いてイスにすわらせる。それから走ってキッチンにもどってホットケーキとナイフとフォークを取って、龍彦の前に置いて、またキッチンにもどって、紅茶のためのヤカンを火にかけてからバターをひとかけらナイフですくった。
 龍彦のもとへもどる。龍彦は泣いてた。

 わたしは、ほほえむ。
 ほら、いまからたのしいことを起こしてあげる。大丈夫。きっと笑顔になるよ。

 いくよ龍彦! ほかほかのホットケーキに、バターのっけちゃうからね!
 フォークを借りて、龍彦のホットケーキにバターをぽんと落とす。すると、みるみるうちに溶けていく。
 ジャーン! ね、バターのっけたら、一気にスッゴイおいしそうになったでしょ! ほらみて! バター、とけてってるよ。もうこんなてろてろ。じわじわしておもしろいね。砂糖は置いとくから好きにつかってね。わたしが思う量かけたらおこるでしょ!

 ほら、さめないうちに食べてよ。

 食べやすいように、龍彦の後ろに回って髪を束ねてあげる。それが終われば、また龍彦の向かいに座った。
 龍彦がナイフとフォークを手に取る。
「いただきます」
 めしあがれ。




 それからわたしは、わたしの料理を食べてくれるわたしの好きな人を見ていた。
 わたしはこのひとの食べるしぐさが好きだ。ナイフとフォークを使わせたら、セカイイチだ。とてもきれい。
 なみだは初めて見たけれど、やっぱりぜんぶ好きって証明にしかならない。わたしは頬杖をついて龍彦を見ている。咀嚼でうごく白い頬とか、のみこんで揺れ動く男らしい喉元とか。
「おいしいよ」
 そうなの。わたしはね、好きよ。ずっと好き。きっと元気になってね。

 龍彦のなみだはなおも溢れる。それなら、止めるべきなみだじゃないんだろうなあ。いっぱい泣いて、いっぱいたべようね。
 そうだ、テレビでもつける? 天気予報でも見よっか。あしたははれがいい? 雨がいい? 龍彦が好きなほうにしちゃおう。明日、龍彦予報が外れても、龍彦予報の天気だと思い込むゲームね! 雨でもかさ差しちゃだめだし、晴れでもかさ差さないとだめだよ!



 龍彦がわたしを見た。
 なんだか、久しぶりに目が合ったきがする。
なまえ
 龍彦がわたしの名前を呼んだ。
 なんだか、はじめて呼ばれたきがする。
「すまない」


 龍彦が、わたしにあやまった。

 どうしてあやまるの? 不思議に思って訊こうとすると、謝ったとたん、龍彦の手からナイフとフォークが滑り落ちた。
 落としちゃったと思って、拾ってあげようとテーブルの下を覗き込む。ナイフとフォークはどこにも見当たらなかった。
 座り直す。テーブルのうえには、いつの間にか何もない。
 ……?

「たつひこ?」
 とうとう龍彦は泣きながらわたしにほほえみかける。その口元はちいさく震えている。
 どうしちゃったんだろう。なんだか心配になってしまって、しょげたような眉をしてしまう。
 龍彦は笑って、そうして。
 右手をのばして、テーブル横の棚からボールペンと何かを取り出す。
 わたしは何も出来ないでいた。どうするのが、いちばんいいんだろ。ひとりにしてあげる? だきしめてねむる? おさんぽをする? おはなしをつづける?
 どうすれば龍彦は楽になれるだろう。
 誰かがなやんでいるとき、そのひとから悩み自体を取り除くことは、きっと最善じゃない。
 龍彦がこのままでいたいのなら、それで良かった。
 でも、龍彦、つらそうだ。
「何ひとつゆるせなかった私を、どうか、……」
 俯いてしまった龍彦の表情はわからない。ただ声はひどくやわらかくて、体温があった。こもれびみたいにねむたい。
 まるで、何かが閉じるみたい。

 龍彦の前には見たことのない本が開かれていた。そこには文字がいっぱい書いてあって、それは紛れもなく龍彦の字。だって、綺麗。とても好きな字。見慣れてうれしい字だ。
 でも、へんだった。書いてある文字はわかるのに、文章の内容が全く頭に入って来ない。日本語だって、わかるのに。文法も何もかも正しいとわかるのに。
 ねえたつひこ、これ何がかいてあるの?

 質問に、答えてはくれなかった。
 そのかわり。

 龍彦が、見たことない本に「おやすみ」って。





「今まで、本当に ありがとう……」